兵庫 兵庫運河 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①古代大輪田泊石椋②新川運河③神明神社④柳原天神社⑤元禄絵図との合成図

 

訪問日:2023年12月

 

所在地:神戸市兵庫区

 

 神田兵右衛門胤保は、天保12年(1841)播磨国印南郡大塩村(現・姫路市大塩町)の大庄屋・梅谷庄左衛門の3男として生まれ、15歳で兵庫出在家で岩間屋を営む12代神田兵右衛門の養子となる。

 

 慶応3年(1867)7月、幕府は大坂・兵庫の名士らに開港資金の拠出を命じ、神田家の家督を継いだ兵右衛門に兵庫開港商社取締役世話役を命じる(肝煎=頭取に北風正造)。

 

 直後に幕府は崩壊し、新政府は慶応4年(1868)5月、兵庫港の管理のために兵庫県を設置し、伊藤俊輔(博文)を初代県知事とする。伊藤は当時28歳で、兵右衛門と同い年であった。

 

 開港された兵庫には名士らの負担で治安維持のため「兵庫市兵隊」が結成されたが、彼らの素行の悪さに教育の必要性を伊藤に訴え、近代的学校「明親館」が開校され、その後も10数校を設立した。

 

 明治5年(1872)新学制公布により兵庫第六小学校が開校したことにより、明治6年(1873)明親館は役割を終えて閉校する。第六小学校がこれに因んだ明親小学校と改名して引き継いだ。

 

 また貿易の拠点が神戸に移った兵庫港を活性化させるため兵庫運河を計画、明治7年(1874)着工、難工事の末に明治8年(1875)から9年(1875)にかけてまず新川運河が完成させた。

 

 ただ新川運河だけでは船舶の避難地に過ぎず、八尾善四郎らにより兵庫運河全体が完成し、和田岬を迂回して西へ向かうことができるようになるまでには明治32年(1899)まで待たなければならなかった。

 

 明治11年(1878)兵右衛門を初代会頭とする兵庫商法会議所が発足、明治12年(1879)兵庫・神戸の合併により神戸区が発足して神戸区商法会議所と改称された(現・神戸商工会議所)。

 

 明治22年(1889)神戸区が八部郡荒田村・菟原郡葺合村と合併して神戸市制が施行されると、初代神戸市会議長となる。明治32年(1899)藍綬褒章を受章する。大正10年(1921)79歳で没する。

 

 

以下、現地案内板より

 

古代大輪田泊石椋

 この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4tの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です当時は、平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。

 この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年度に確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代後半から平安時代中頃の大溝と建物の一部と考えられる遺構が発見されました。このことにより石材が発見された場所は当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田泊の石椋の石材であったと推定されました。

 最近では、江戸時代に描かれた絵図と照らし合わせると入江の護岸施設で使用された石椋であった可能性も考えられます。石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などであったと考えられます。残念ながら発掘調査によって発見された石材ではないので、築造された時代は不明です。発見時の状況から、その構造は巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推測されます。

 古代から近世に至るまで、兵庫津周辺は複雑に入り組んだ入江が多く存在していたことが、これまでの発掘調査や江戸時代に描かれた絵図で判明してまいりました。この巨石も、そういった入江などの護岸施設や、港湾施設の一部であった可能性があります。

 

平成29年11月 神戸市教育委員会 兵庫区役所

 

 

神明神社

 御祭神  天照大神 豊受大神 猿田彦大神

 

 当社の御祭神は伊勢神宮から勧請し古くから兵庫の町の守護神として神明町に鎮座し祀られていた。

 その起源は文献上残って無いので不明であるが、兵庫津の七社の一であり、かなり古くから此の地に鎮座していた。

 元禄5年(1692年)の寺社改帳では、神明の宮二社即ち 一、東の方社 外宮 二、西の方社 内宮

と記され、伊勢神宮と同じ形式の二社が祀られていた。

 兵庫は、平清盛公によって大輪田の泊が大改修されて以来、瀬戸内の要港として多数の海運業者が集まるようになり、現在合祀されている海上安全の守護神、「猿田彦大神」が合祀されたのもこの頃であると推測される。

 江戸時代には能福寺とも関係があり、寛永年間(1624~44年)には同寺が宮守として奉仕していたとの記録もある。

 

 

柳原天神社略由緒

 御祭神  菅原道真公 天之菩卑能命 野見宿禰命

人皇第60代醍醐天皇の昌泰4年正月右大臣菅原道真公は九州太宰府へ左遷さるる事となり其の途次当地兵庫港に上陸し郁たる梅花を賞で「風さむみ雪にまかへて咲く花の袖にぞ移れ匂ふ梅が香」と詠じ給った公の太宰府に薧ぜらるるや大宰府安楽寺の菅公廟より御分霊を迎え奉祀した、これが当社の縁起である

鎌倉時代、時宗(じしゅう)の開祖一遍上人が当社の南方約400mにあった観音堂で示寂(死去)さるるや時宗第二世他阿上人が一遍上人の墓の傍に眞光寺を建てた、この時当社の傍にも上人が満福寺を建立し僧侶が奉仕した、明治初年神佛判然令に依り独立して神道祭祀となり同35年には菅公一千年祭を斎行し同45年市内最初の国家幣帛供進指定神社となる(古来、社殿は現地の北方約15mに在り東面す昭和20年罹災後、現地に鎮座し南面となった)

昭和20年3月太平洋戦争のため本殿以下諸建物また氏子3,000戸全焼し同33年より本殿以下を復建した、古来平家一門また前記の時宗の門徒の信仰篤く殊に平忠度は「天神画像」の大軸を奉納す(現在社宝)徳川時代の文教盛んになるに従い益々社勢も亦盛となり明治初年氏子の切戸町の旧幕府勤番所跡に兵庫県庁を置き県政の中心地となるや朝野の名士文人墨客の往来参拝多く殊に当地に唯一の郷学明親館の設置せられ兵庫の文芸、文事みな当地を中心として発祥し当社は神戸市文教の祖神としての信仰を集むるに至った。

当社祭典は盛大にして神輿、地車、牛車、(御所車)など神幸式は名物祭として知られた。