摂津 宝積山 能福寺(兵庫大仏) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①月輪影殿(本堂)②兵庫大仏③平相国廟④滝善三郎正信の碑⑤北風正造顕彰碑⑥ジョセフ・ヒコの英文碑

 

訪問日:2023年12月

 

所在地:神戸市兵庫区

 

 瀧善三郎正信は、天保8年(1837)備前岡山藩家老日置氏の家臣・瀧正臣の次男として津高郡金川(岡山市北区)に生まれた。兄に源六郎正一がいる。

 

 慶応4年1月6日(1868/1/30)鳥羽・伏見の戦いが新政府軍の勝利に終わり、備前藩は徳川方の尼崎藩に備えるため、新政府軍の命で西宮の警備を命じられた。

 

 同年1月11日(2/4)兄が率いる岡山藩前軍の隊列が神戸に差し掛かった時、隊列を横切ろうとしたフランス人水兵2人を制止しようとした善三郎が槍で負傷させてしまったことがきっかけで銃撃戦に発展してしまう。

 

 新政府初の外交問題の責任は善三郎が一人で負うこととなった。兄らの説得に応じた善三郎は、2月9日(3/2)兵庫永福寺において列強外交官列席のもと、作法通りに切腹して果てた(32歳)。

 

  辞世の句  きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ

 

 この事件により新政府が諸外国に正当な政府であることを認めさせたとともに、問題の行方によっては神戸が香港の九龍や上海のように列強の植民地支配を受ける危機でもあったと評価されている。

 

 列席した英国外交官・ミットフォードはこの切腹の模様を詳細に本国に伝え、これを英国週刊新聞The Illustrated London Newsが銅版画付きで報じ、世界的にセンセーションを巻き起こした。

 

 善三郎には妻の尾瀬氏との間に1男1女があり、息子・成太郎は備前藩主池田氏直参となって500石を賜り、善三郎の跡目も娘・いわが婿を取って100石を賜った。

 

 新渡戸稲造(1862-1933)が明治32年(1899)に英文で著した『武士道』(Bushido:The Soul of Japan)の中でも、善三郎の切腹について述べられている。

 

 永福寺跡のかねてつ食品株式会社本社(当時)に残っていた善三郎の供養塔は、昭和44年(1969)百回忌をもって西へ100mの能福寺に移設された。

 

 

以下、現地案内板より

 

兵庫大佛尊像

明治初年、大政官布告により神佛分離令が発せられ廃佛毀釈により佛教界は壊滅状態だった。この時兵庫の民衆はもとより佛教界全宗派を挙げて巨大な盧遮那大佛が建立された。以来、奈良、鎌倉と共に日本三大佛に数えられる。その後この兵庫一帯は大いに栄えて神戸一の繁華街を誇り、香の絶ゆる間なく内外の参詣者で賑わった。映画解説者の淀川長治氏は、この境内の活動写真を愛され、漫才の故砂川捨丸師匠、松竹新喜劇の故渋谷天外師匠の初舞台もこの境内の掛小屋だと、自ら語っておられました。今次大戦の敗色濃い昭和19年5月金属回収令により悲しみに沈む多数の市民に見送られ出征された。平成3年5月多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大佛である。

 身丈11m・耳の長さ2.1m、蓮台3m、台座4m、地上よりの総高18m、重さ(蓮台共)60トン

 

天台宗 能福護國密寺

 開基 傳教大師最澄上人 延暦24年(西暦805年)

 本尊 傳教大師御作 薬師如来立像

 御前立 彌陀三尊佛(藤原時代後期の優作) 十一面観世音菩薩立像(弘仁年間の秀作)

       国指定重要文化財

今から千年以上も昔、延暦23年(西暦804年)桓武天皇の勅命を受けて支那に留学せられた傳教大師は、その帰途、兵庫和田岬に上陸、庶民大いに大師を歓待し、堂を建立して教化を請うた。大師は御自作の薬師如来像を御堂に安置して国の安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護國密寺と称された。即ち傳教大師の我が国最初の教化霊場である。

平清盛公福原遷都の時(治承4年、西暦1180年)平家一門の帰依あり、小川忠快法印(平清盛公の甥)七堂伽藍を完備して兵庫随一の勢力を誇り福原京五山の第一に居し依って通称「福原寺」と称した。寺の壮大な外観から「八棟寺」とも称された。平家滅亡後、暦応4年(西暦1341年)震災により全焼、慶長4年(西暦1599年)明智光秀の臣、長盛法印堂宇を再建した。本朝編年集に曰く「仁安3年(西暦1168年)11月平清盛、能福寺ニ於テ剃髪入道ス。養和元年(西暦1181年)2月4日京西八条ニ於テ薨去。歳六十四。翌日火葬トシ、圓實法眼全骨ヲ福原ニ持チ来々リ、能福寺ノ東北ニ埋ム。」これは清盛公の遺言によるものである。圓實法眼は当寺の住職にして徳大寺家祖左大臣實能公を父とする出處正しき人物である。

 

 

明治維新 神戸事件  瀧善三郎正信の碑

 

きのう見し 夢は今さらひきかえて 神戸の浦に 名をや あげなむ

 善三郎辞世の句

開港間もない神戸で起きた外国との紛争で発足後最初の外交問題で苦境に立たされた明治新政府を救い日本が外国に植民地化されるのを未然に防いだのが神戸事件の瀧善三郎正信の死であった。

 慶応4年(1868年)1月11日西宮警備を命令された備前藩兵が大砲を引いて西国街道を通過中、三宮神社前で行列を横切ろうとした、フランス水兵を槍で以って刺傷させた「神戸事件」が起り神戸の町は一時、外国兵によって、占拠されるありさまであった。

 この事件は明治新政府の素早い方針転換声明と、備前藩責任者の処罰によって決着がついたが全責任を負って同年2月9日兵庫の津、永福寺(現カネテツデリカフーズ(株)で外国人代表ら立ち合いの面前で切腹した瀧善三郎正信(当年32才)の最後は識者の涙を誘ったその跡地に碑を建て市民はこの事件に一番の役割を果した彼に、心から感謝の意を表し、その功績を永くたたえてきました。

 昭和8年今迄あった木碑に代えて立派な石碑が建立された昭和20年戦災で寺は焼失したが碑は無事に残り境内跡地に出来た「カネテツデリカフーズ(株)」構内に祭られ供養が続けられていた。

 その後昭和44年、地元有志並びカネテツデリカフーズ(株)により、ここ能福寺の聖域に移設された。

 

神戸市 能福寺 兵庫津の文化を育てる会