昌泰2年(899)宇多上皇は出家して仁和寺に入り法皇となる。しかし、これが道真の孤立を招くこととなる。
昌泰4年(901)道真は宇多法皇の第3皇子で道真の婿でもある斉世親王を皇位につけようとしたとして大宰府に左遷される(昌泰の変)。
同年(改元して延喜元年)法皇は東寺で伝法灌頂を受け、真言宗の阿闍梨となる。これにより真言宗の発言力が高まり、法皇はその後も影響力を維持したともいわれる。
承平元年(931)崩御、65歳であった。
以下、現地案内板より
清荒神清澄寺略沿革
清荒神清澄寺は、今をさかのぼること千百十余年ー平安時代の初め、宇多天皇の創意による理想の鎮護国家、すなわち諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建されました。
天皇は讃岐国の名工、定円法眼に命じて曼陀華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平8年(896)に、叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖としました。
まず、伊勢内宮・外宮など十五神を勧請し、鎮守神として、三宝荒神社を祀り、蓬莱山七嶺七渓に荘厳な伽藍を造営しました。そして宇多天皇より「日本第一清荒神」の称号を賜わり、蓬莱山清澄寺として栄えました。およそ三百年の後、源平の兵火により灰燼に帰しましたが、勅令により建久4年(1193)、源頼朝の手によって再興されました。それよりまたおよそ四百年の後の戦国時代、再び兵火で荒神社を除く諸堂尽く焼亡しました。
江戸時代末期、一代の名僧浄界和上は昭和22年に真言三方宗を開き、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として新しく法幢をかかげ、創建以来、連綿と続く栄光千年の法燈は一日も絶えることなく、今日を迎えています。
また、世界の画聖富岡鉄斎翁との機縁により、鉄斎作品の蒐集を行い、国の内外で広く展覧会を開催し、昭和50年には、鉄斎美術館「聖光殿」を建設、一般に公開し、その入館料は全額宝塚市へ図書購入費として寄贈しています。
平成20年には史料館を建設し、布教の場として随時什物等の展示を行い、ご信者様方に公開しています。