再)摂津 蓬莱山 清澄寺(清荒神) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本堂②龍王滝③拝殿④御法堂⑤山門⑥一の鳥居

 

訪問日:2023年12月

 

所在地:兵庫県宝塚市

 

 第58代・光孝天皇の第7皇子・定省は18歳の元慶8年(884)25人の兄弟姉妹とともに臣籍降下されて源氏となり、源定省と称した。

 

 しかし、光孝天皇が仁和3年(887)後継を定めずに重態に陥ると、関白・藤原基経は最有力の貞保親王(第56代清和天皇第4皇子)を嫌い、定省を推した。

 

 定省は皇族に復帰して親王宣下を受け、皇太子に立てられたその日に天皇が崩御したため、践祚して即位した。(第59代・宇多天皇)

 

 ところが改めて基経を関白に任じた手続きに何を怒ったか基経が自邸に引き籠り、翌年には腹心の左大弁・橘広相を解官せざるを得なくなった。(阿衡事件)

 

 その渦中の仁和4年(888)父の遺志を引き継いだ形で、勅願寺の仁和寺が完成している。寛平3年(891)基経が亡くなり、宇多天皇の親政が始まる。

 

 基経の嫡男・時平を参議に取り立てた上で、源能有(清和天皇の兄)・菅原道真・藤原保則らを抜擢して遣唐使の停止、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などを進めた(寛平の治)。

 

 清荒神清澄寺が勅願寺として建立されたのは、寛平8年(896)のことで、翌寛平9年(897)天皇は突然13歳の第1皇子で皇太子の敦仁親王を元服させ、即日譲位した(第60代・醍醐天皇)。

 

 皇后に自らの同母妹・為子内親王を立て、藤原北家嫡流を外祖父とする皇子の出生を阻もうとしたが、為子は2年後に勧子内親王を出産すると同時に死去した。

 

 また譲位直前に道真を権大納言に任じ、最上席の時平に次ぐ次席としてともに内覧を命じ、朝政を2人で牽引する体制とした。

 

 昌泰2年(899)宇多上皇は出家して仁和寺に入り法皇となる。しかし、これが道真の孤立を招くこととなる。

 

 昌泰4年(901)道真は宇多法皇の第3皇子で道真の婿でもある斉世親王を皇位につけようとしたとして大宰府に左遷される(昌泰の変)。

 

 同年(改元して延喜元年)法皇は東寺で伝法灌頂を受け、真言宗の阿闍梨となる。これにより真言宗の発言力が高まり、法皇はその後も影響力を維持したともいわれる。

 

 承平元年(931)崩御、65歳であった。

 

 

以下、現地案内板より

 

清荒神清澄寺略沿革

 

 清荒神清澄寺は、今をさかのぼること千百十余年ー平安時代の初め、宇多天皇の創意による理想の鎮護国家、すなわち諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建されました。

 天皇は讃岐国の名工、定円法眼に命じて曼陀華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平8年(896)に、叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖としました。

 まず、伊勢内宮・外宮など十五神を勧請し、鎮守神として、三宝荒神社を祀り、蓬莱山七嶺七渓に荘厳な伽藍を造営しました。そして宇多天皇より「日本第一清荒神」の称号を賜わり、蓬莱山清澄寺として栄えました。およそ三百年の後、源平の兵火により灰燼に帰しましたが、勅令により建久4年(1193)、源頼朝の手によって再興されました。それよりまたおよそ四百年の後の戦国時代、再び兵火で荒神社を除く諸堂尽く焼亡しました。

 江戸時代末期、一代の名僧浄界和上は昭和22年に真言三方宗を開き、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として新しく法幢をかかげ、創建以来、連綿と続く栄光千年の法燈は一日も絶えることなく、今日を迎えています。

 また、世界の画聖富岡鉄斎翁との機縁により、鉄斎作品の蒐集を行い、国の内外で広く展覧会を開催し、昭和50年には、鉄斎美術館「聖光殿」を建設、一般に公開し、その入館料は全額宝塚市へ図書購入費として寄贈しています。

 平成20年には史料館を建設し、布教の場として随時什物等の展示を行い、ご信者様方に公開しています。