肥前 水ヶ江城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①龍造寺隆信誕生地碑②龍造寺隆信公生誕地③乾亨院④天満宮⑤水濠⑥案内板

 

訪問日:2023年11月

 

所在地:佐賀県佐賀市

 

 龍造寺家兼は、享徳3年(1454)肥前の国人・龍造寺康家の5男として生まれた。長兄に胤家、次兄に家和、4兄・澄覚は文明5年(1473)康家が復興した實琳院の住職となった。

 

 胤家は、主君の千葉胤朝から偏諱を受けたが、対外政策を巡る家中の争いにより出奔したため、明応年間(1492-1501)康家は家和に家督(村中龍造寺氏)を譲り、水ヶ江に新たな館を築き隠居した。

 

 永正7年(1510)康家が死去すると、水ヶ江の館を家兼が継いで城塞化した。これが水ヶ江龍造寺氏の始まりである。この頃、主家の千葉氏の内紛に乗じて少弐氏が肥前南部を奪っている。

 

 享禄元年(1528)家和が死去し、長男・胤和が早世していたため、次男・胤和が村中龍造寺氏の家督を継いだ。胤和はすでに29歳だったが、75歳の家兼が龍造寺氏の実権を握ったようだ。

 

 享禄3年(1530)周防大内氏との田手畷の戦いで少弐氏方として活躍したのは、家兼とその2人の息子(家純・家門)だった。大内義隆はこの後、少弐氏の外様家臣である家兼の調略を謀ったという。

 

 度重なる大内氏の攻撃に耐えかねた少弐資元は、天文4年(1535)家兼の進言を容れて和睦するが、領地を悉く奪われ、天文5年(1536)には大内氏の攻撃により自害に追いやられる。

 

 この時、家兼一門が資元を見殺しにした裏切り者の疑惑を受けたともされるが、引き続き資元の子・冬尚に仕えている。天文7年(1538)家兼は剃髪し、剛忠と称した。

 

 天文14年(1545)少弐一門の馬場頼周の謀略により、子の家純(67歳)、家門(年齢不詳)、家純の子の周家(42歳)・純家・頼純、家門の子の家泰ら一門の多くが粛清の憂き目に遭う。

 

 92歳の剛忠は寶琳院の息子・豪覚のもとで出家していた周家の長男・円月(17歳)とともに筑後に逃れ、柳川城主・蒲池鑑盛の保護を受けた。天文15年(1546)剛忠は老躯をおして再起の兵を挙げる。

 

 家純の娘婿・鍋島清房(直茂の父)が一揆を煽動してこれを支援し、剛忠は頼周討ち取り龍造寺氏の再興を果たす。同年、円月を還俗させて後事を託して死去した。円月は後に「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信である。

 

 

以下、現地案内板より

 

水ヶ江城跡

 

 龍造寺家の中興とされる康家公(1510年没)は、二男家和に惣領の立場と佐賀城(いわゆる村中城)を譲り、自らは新たに築いた水ヶ江館に隠居しました。これにより龍造寺家は、村中龍造寺家と水ヶ江龍造寺家の二つに分かれることになりました。

 水ヶ江龍造寺家の本拠である水ヶ江城の様子を、のちの江戸時代に描いたのがこの絵図です。本館・中の館・東の館などがあり、それぞれの館の周りに堀が巡らされていた様子などをイメージすることができます。江戸時代になると、この一帯は、龍造寺隆信公の弟長信公にはじまる多久家とその家臣たちの屋敷となりました。

 

 

佐賀市史跡 龍造寺隆信誕生地

昭和43年2月11日指定

構造及び形状並びに高さ:胞衣塚1.90メートル四角 高さ1.10メートル

 

 肥前を代表する戦国大名、龍造寺氏は現佐賀市城内一帯の小津東郷龍造寺村の地頭から、戦国の争乱の中で次第に東肥前地方に勢力を伸ばしてきた。明応の頃(1492〜1501)に、本家の村中龍造寺家と、分家の水ヶ江龍造寺家とに分かれて、群雄に対する防備を固めた。

 五州二島(肥前・肥後・筑前・筑後・豊前と壱岐・対馬)の太守と称された龍造寺隆信は、享禄2年(1529)2月15日水ヶ江城東館天神屋敷で生まれた。誕生碑のかたわらに胎盤を納めた胞衣塚がある。

 天文5年(1536)7歳のとき宝琳院に入って出家し、円月と号し、また中納言と称した。天文15年(1546)3月、曾祖父龍造寺家兼(剛忠)が93歳で死去した。龍造寺家は柱と頼む人物を失ったが、家兼の遺志により、中納言は還俗して胤信と称し、水ヶ江龍造寺家を継ぎ、翌々年の天文17年に村中龍造寺家も継いで、龍造寺宗家の当主となり、山城守隆信と称した。

 

佐賀市教育委員会 平成25年8月

 

 

乾亨院と官軍墓地

 乾亨院は、佐賀城本丸と南濠を隔てた南東部にあって、永正年間(1504~20)に龍造寺隆信の曾祖父、山城守家兼(剛忠)が建立し、その弟天亨が開山となった臨済宗南禅派の寺院で、山号は四徳山という。

 この乾亨院には、明治7年(1874)の佐賀の役で戦死した、新政府軍(官軍)の熊本鎮台第11番大隊士官20名、兵卒75名、軍属9名など、計107名が葬られている。3基の墓碑にはその階級、所属、身分、氏名が刻んであるが建立者の名はない。墓前の2基の石燈籠には「明治二十六年有志中」とあり、これも建立者は不詳。

 境内にはこれら官軍と戦った、佐賀征韓党の首脳の一人である、朝倉弾蔵の墓もある。

 

佐賀市