肥前 佐賀城② | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①天守台②天守虎口③天守台と本丸御殿④本丸御殿と鯱の門⑤鯱の門及び続櫓⑥南西隅櫓台と南濠

 

訪問日:2023年11月

 

所在地:佐賀県佐賀市

 

 鍋島斉正は、文化11年(1815)佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の17男として生まれた。母は鳥取藩主・池田治道の娘・幸。治道は島津斉彬(1809-58)の外祖父でもある。

 

 文化5年(1808)のフェートン号事件で、佐賀藩は長崎の守備兵を無断で1/10に削減していたことが発覚し、家老ら数人が切腹、斉直も100日の閉門処分を受けた。以来、長崎警備の負担が増大する。

 

 文政11年(1828)にはシーボルト台風で佐賀藩だけでも1万人の死者という大きな被害を被った。借金が13万両に上る中、斉正は天保元年(1830)父の隠居により17歳で家督を継ぎ、10代藩主となる。

 

 斉正は藩役人の人員を1/5に削減し、借金の8割の放棄と残り2割の50年割賦を認めさせるとともに、磁器・茶・石炭などの産業・交易の育成による改革で藩財政を改善させる。

 

 さらに藩校・弘道館の拡充と人材の育成・登用、農村の復興に努めた。また藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館長に天然痘の牛痘苗の入手を依頼。嘉永元年(1848)6月、長崎で種痘が施された。

 

 佐賀藩では8月に斉正の長男・淳一郎(11代藩主・直大)この牛痘苗が瞬く間に京都・大坂・江戸・福井へともたらされ、10月に京都で笠原良策らが、11月に大坂で緒方洪庵が種痘所を開設した。

 

 長崎警備については、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、嘉永3年(1850)には日本初の実用反射炉・築地反射炉が完成させた。これらの技術は母方の従兄・島津斉彬と共有されたという。

 

 これらの政策が、安政5年(1858)三重津海軍所(世界文化遺産)の設置、文久3年(1863)アームストロング砲の自製(真偽不明)、慶応元年(1865)日本初の実用蒸気船・凌風丸の竣工などに繋がった。

 

 嘉永6年(1853)ペリー来航により、老中・阿部正弘が諸大名に意見を募った際には、米国の武力を背景とした外交には強く攘夷論を唱えた一方で、英国のような親善外交に対しては開国論を主張した。

 

 文久元年(1861)48歳で直大に家督を譲り、閑叟と号して隠居する一方で、文久2年(1862)上洛して関白・近衛忠熙に京都守護職任命を要請したが叶わなかった。

 

 鳥羽・伏見の戦いには参戦しなかったが、その後の戊辰戦争で最新鋭兵器を装備して新政府軍に加わった佐賀藩の活躍は目覚ましく、明治元年(1868)斉正は直正と改名して議定に就任、佐賀藩は薩長土肥の一角を担った。

 

 明治2年(1869)蝦夷開拓総督のち開拓長官に任ぜられたが、蝦夷地に赴任することはなく、同年大納言に転任した。満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発など将来を見越した提言をしたという。

 

 しかし明治4年(1871)58歳で病没、これは佐賀藩にとって痛恨事で、その後の政府内で佐賀閥が薩長閥に比し遅れをとった一因だとされる。

 

 

以下、現地案内板より

 

佐賀城

佐賀城は戦国大名龍造寺氏により築かれた城(いわゆる村中城)を拡張して、近世初頭(約400年前)に鍋島氏により築かれました。北の山麓まで二里(8km)、南の海まで一里(4km※)の平野部に位置する平城でした。大きな特徴である80m前後の幅をもつ広大な堀は、江戸時代には「四十間堀」と呼ばれ、特に北堀は福岡藩の協力を得て掘られたことから「筑前堀」とも呼ばれました。

城内(約12万坪)の構成は、南東隅が本丸と二の丸で、内堀を隔てた西側の三の丸や西の丸も藩主鍋島家および一門の区域にあたります。そのほかは御馬屋(厩舎)、百間御蔵(武器庫)などの公的な施設や重臣の屋敷地で占められていました。北西部に大きな屋敷地が集中しているのは、村中城時代に龍造寺氏が居住した本丸や屋敷地のエリアを諫早家、武雄鍋島家、多久家といったいずれも龍造寺家系統の重臣が引き継いだことによります。戦国時代の領主である龍造寺氏の家筋と、江戸時代の藩主である鍋島家が肩を寄せ合い城内を構成していた様子がうかがえます。

※ 干拓により海岸線は、南に移動し、現在は、佐賀城から有明海まで約10km。

 

 

▪️佐賀城鯱の門及び続櫓

鯱の門は天保9年(1838)に建設され、屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と呼ばれています。明治7年(1874)の佐賀の乱の時の弾痕が今も残っており、当時の戦闘の激しさを物語っています。また、鯱の門と続櫓は昭和28年(1953)佐賀県重要文化財に指定され、昭和32年(1957)には国の重要文化財に指定されており、昭和36〜38年(1961〜63)に屋根葺替えと解体修理が行われました。

▪️天守台

天守台の高さは約9m、距離は南北31m、東西27mあります。慶長12〜14年(1607〜09)に4層5階の天守閣が築かれました。しかし、享保11年(1726)4代藩主吉茂の時、本丸、二の丸、三の丸、天守閣が焼失し、その後、近代になって、佐賀測候所(1890〜1938)や協和館(1957〜2004)がありましたが、現在は更地となっています。

▪️佐賀県立佐賀城本丸歴史館

佐賀城本丸歴史館は天保6〜9年(1835〜38)に佐賀藩10代藩主鍋島直正が再建した本丸御殿の一部を忠実に復元した歴史博物館です。延べ床面積2,467㎡で天保期再建の本丸御殿の約3分の1を復元しています。館内は「佐賀城の変遷と本丸」「幕末・維新期の佐賀」「明治維新と佐賀の群像」という3つのテーマで日本の近代化を先導した“幕末維新期の佐賀”の魅力を紹介しています。

 

 

重要文化財 佐賀城鯱の門及び続櫓

昭和32年6月8日指定

 本丸御殿は慶長13年(1608)から慶長16年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。

 ところが、この二の丸も天保6年(1835)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。10代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。

 この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838)の6月に完成したものです。

 明治7年(1874)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。

 門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。

 

佐賀市教育委員会

 

 

直正公と幕末佐賀藩

 1830年(文政13年)、数え年17歳で第10代藩主となった鍋島直正公がまず取り組んだのは藩の財政再建でした。自ら率先垂範しつつ領民に律儀な行いや質素倹約を求めるとともに、藩庁の整理改革を進め、立て直しに成功しました。その余慶は堅実な佐賀人気質として今に遺されています。

 藩財政の基礎となる農業については小作料免除など零細な農民を保護し、安定的な年貢収入を目指しました。また、藩内の商品の保護育成に心を砕き、積極的な産業奨励により藩の財政を好転させました。

 こうした藩政改革を推進するため、公は、藩校弘道館を北堀端に移転拡張し、人材の育成に力を注ぎました。この結果、藩士たちは単に学問だけではなく、文武の修行を通じて律儀で質素な佐賀藩独特の気風を身に着け、藩に貢献できる実用的な人材に成長していきました。

 儒学のほか、蘭学にもとくに力を入れ、広く藩内の医師には西洋医学を学ばせました。医師免許を制度化したほか、天然痘の予防のための種痘を、嗣子直大公を初めとして領内くまなく藩費負担で広めたことは、地域医療に対し責任を持つ近代的な社会福祉のさきがけともいえます。現在の佐賀県医療センター好生館は直正公が設けた医学寮好生館の後身です。

 佐賀藩が代々受け持っていた任務に長崎港の警備があります。ナポレオン戦争やアヘン戦争の影響は鎖国政策をとる極東の日本までも容赦なく襲い、西洋列強のアジア進出の高波が次々に押し寄せていました。公は長崎港の守りを強化する対策として長崎港口に浮かぶ島々に砲台を築造するとともに、城下の築地反射炉において日本で最初の鉄製大砲の鋳造を成功させます。

 米国ペリー艦隊の来航直後に、品川御台場に備える大砲を幕府より依頼され、50門を受注したことは佐賀藩の先進性を物語っています。このほか、理化学分野の研究・開発を担う精煉方を設けて蒸気機関や電信機の研究を行い、蒸気船を含む様式船の運用や修理・造船のための艦隊基地三重津海軍所を充実させました。

 こうして佐賀藩は長崎を通じて西洋の知識や技術を摂取することになり、国内随一の軍事力を培い、幕末屈指の雄藩となりました。アームストロング砲に代表される、その軍事力は戊辰戦争の決着を早め、公が訓育登用した佐賀の英才たちは、明治の新国家建設に大きく貢献することとなりました。