肥前 三瀬城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭②主郭搦手虎口③主郭大手虎口土塁④主郭大手虎口石積⑤二の郭から主郭虎口⑥二の郭虎口

 

訪問日:2023年11月

 

所在地:佐賀県佐賀市

 

 神代勝利は、永正8年(1511)神代宗元の次男として生まれた。母は肥前千布城主・陣内利世の娘。神代氏は代々筑後一宮の高良神社の大宮司を務めた名族だが、宗元は没落して肥前に落ち延びていた。

 

 享禄年間(1528-32)三瀬城主・野田宗利に請われてその剣術指南となり、やがて弟子は500人に達したという。宗利に山内(三瀬を含む脊振山地一帯)二十六氏の総領に推挙され、三瀬城主となる。

 

 天文9年(1540)に少弐氏の再興を果たした大宰少弐・少弐冬尚の家臣・馬場頼周が天文14年(1545)家臣・龍造寺家兼(剛忠)の子である家純・家門ら龍造寺一族のほとんどを誅殺する。

 

 この時、勝利も、弁明に向かう途上で龍造寺周家(隆信の父)らを殺害したという。92歳の家兼は出家していた曾孫・円月(後の隆信)を連れて筑後の蒲池氏のもとに脱出する。

 

 天文15年(1546)家兼は老躯を押して挙兵、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興、円月を還俗させて間もなく死去、還俗した胤信(のち隆信)は天文16年(1547)少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。

 

 天文20年(1551)隆信の後ろ盾であった大内義隆が大寧寺の変で死去すると、龍造寺氏家臣・土橋栄益が叛旗を翻すと、勝利もこれに与し、隆信は再び蒲池氏のもとに流れる。

 

 天文22年(1553)隆信が再起の兵を挙げると、勝利は八戸宗暘の八戸城(佐賀市八戸)に入り防戦するも、敗れて隆信に和睦を請い、山内に引き上げた。

 

 弘治元年(1555)隆信と再び対立し、山内を出て千布城に入る。これを暗殺しようと隆信の家臣・小河信安が湯殿に忍ぶ。酒宴中の勝利はこれを知ると信安を呼んで酒を酌み交わしたという。

 

 弘治2年(1556)隆信が山内に攻め込み、勝利は支えきれず筑前高祖城の原田隆種のもとに逃れる。弘治4年(1558)元日元旦、山内復帰の兵を挙げ、三瀬城復帰を果たす。

 

 同年8月、小河信安の留守中に春日山城を攻略する。一族を多数討ち取られた信安は手勢を率いて勝利と対峙、ともに自ら斥候に出て両者が出会し一騎打ちとなって勝利が信安を討ち取った。

 

 攻勢に出た勝利は龍造寺家臣の石井兼清や小田政光を討ち取り勝利するが、神代勢の消耗も激しく三瀬城に引き上げた。隆信は同年末、少弐冬尚の勢福寺城を攻め、翌年には自害に追い込んだ。

 

 永禄4年(1561)隆信は勝利に挑戦状を送り付け、これを容れた勝利は川上峡にて雌雄を決することとなるが、裏切り者が出て3男・周利が斬られて瓦解、次男・種良も討ち取られる大敗を喫する。

 

 勝利は妻子とともに波佐見に逃れるが、山内に残った家臣・中村壱岐守の手引きで山内復帰を果たす。永禄5年(1562)長男・長良の娘と隆信の3男・家信の婚約を約して和睦した。

 

 勝利は畑瀬城に隠棲し、永禄8年(1565)55歳で死去した。その直後、長良の2人の息子が相次いで疱瘡で死去すると、隆信は長良の千布城に攻め込み、不意を打たれた長良は筑前に逃れた。

 

 長良は大友宗麟らの知遇を得て、旧臣の支援や原田隆種の援軍により同年中に山内復帰を果たした。その後も大友氏に属して隆信と戦うが、元亀2年(1571)和睦して、天正9年(1581)三瀬城で死去した(45歳)。

 

 長良の養嗣子・神代家良は、鍋島直茂の弟・小河信俊の3男で、その家系は後に佐賀藩主一門格・川久保鍋島家となった。ただ勝利・長良との血縁関係にはないようだ。

 

 

以下、現地案内板より

 

三瀬城跡  佐賀市三瀬村三瀬

【城の歴史】

 この城山一帯(標高667m)に築かれた三瀬城は、山内(三瀬村・富士町・大和町など佐賀市の北部・脊振)一帯を支配する中核拠点でした。最初の城主や築城時期などは不明ですが、戦国時代後半(16世紀頃)には、野田土佐守宗利(後、三瀬氏を名乗る)が一応の城構えを整えたようです。

 さらに、三瀬氏から支配権を譲られた神代大和守勝利(1511〜1565)が、三瀬城を要害堅固な城へと大改造していきます。この後、彼は三瀬城を中核とし、山内各地に支城を築いて支配体制を確立するとともに、五州の大守と称された村中城主龍造寺隆信(1529〜1584。村中城は後に佐嘉城へ改変)と激戦を度々繰り広げるなど、勇猛果敢な戦国大名として広く知れわたります。

 彼の死去後、子息の神代長良が三瀬城の最終的な整備を行いますが、敵対していた龍造寺氏と和睦し、さらに鍋島氏の家臣となるに至り、やがて山内を離れていきます。その後、この三瀬城は戦いの場となることは無く、現在に至っています。

【城の構造】

 三瀬城は、最高所の主郭(平坦な空間)と南東側下段の二の郭を中核区域とし、さらに南東及び南西に延びる尾根筋の小郭群によって、全体が構成されています。また、これらの東西両斜面には大きな竪堀・連続して並ぶ竪堀を、背後の北東側斜面には大堀切をそれぞれ配置しており、山全体を防御の縄張り(配置・構造)とする典型的な山城です。

 城道は南側の谷筋(麓の「館」方向)から延びており、二の郭・主郭の虎口(出入口)へと続いています。その虎口(出入口)右側に突出した郭空間が設けられていますが、これは侵入してくる敵を側面から攻撃する「横矢掛け」という独特の築城技術を採用したものです。

【城の特徴ー土塁と石垣】

 主郭・二の郭の周囲には土塁をめぐらせていますが、主郭の方は約2〜5mもの高さで築いており、極めて強固な防御空間としています。佐賀県下でも最大級の土塁であり、まったく異例の規模・構造です。

 また、両郭の土塁内側や虎口(出入口)には、野面石(自然石)を用いた石垣や石段が構築されていますが、県下の山城で石垣をこれほど多用する事例は他には勝尾城(鳥栖市・筑紫氏居城)しかなく、貴重な土木技術の事例でもあります。

 

 さて、日本城郭の築城技術は「土造りの中世山城」から「石造りの近世城郭」へと進展していきますが、三瀬城には「連続竪堀」「虎口構造」「土塁・石垣」など、戦国時代としては最先端の築城技術がいち早く導入されています。

 このように、三瀬城は勇将神代勝利の居城であるとともに、中世山城としての築城技術の高さを誇っており、今もなお、その威容をみごとに伝える貴重な城跡です。

 

平成25年3月 佐賀市三瀬支所

 

 

三瀬城跡  佐賀市三瀬村三瀬

【三瀬城と城主】

 脊振山地にほぼ中央に位置する三瀬村は、肥前国(佐賀県)と筑前国(福岡県)を往来する街道が三瀬峠を越えて通じており、古来より交通要衝の地でした。

 三瀬城は、この交通路を臨む頂部一帯(標高667m)に設けられた大規模な山城であり、山内(三瀬村・富士町・大和町など佐賀市の北部・脊振)一帯を支配する中核拠点として築かれました。いつ頃、誰が最初に三瀬城を築いたのかなどは不明ですが、戦国時代後半(16世紀頃)には、野田土佐守宗利(後、三瀬氏を名乗る)城の構えをおよそ整えたようです。

 そして、この三瀬城をさらに要害堅固な城へと大改造したのは、三瀬氏から支配権を譲られた神代大和守勝利(1511〜1565)です。。この後、彼は三瀬城を中心に山内の支配を強めるとともに、佐賀平野へも度々下って攻め込み、五州の大守と称された村中城主龍造寺隆信(村中城主。後に、村中城は佐嘉城へ拡張)と激しい戦いを繰り広げるなど大いに奮戦し、勇猛果敢な戦国大名として、その名を轟かせました。

 彼の死去後、子息の神代長良が跡を継ぎ、三瀬城の城構えを最終的に整備しますが、敵対していた龍造寺氏と和睦し、さらには鍋島氏の家臣となるに至り、やがて山内を離れていきます。

 江戸時代には、佐嘉郡川久保・小城郡芦刈の領主へと移り、神代氏は佐嘉藩の重臣として仕えます。

【城の特徴ー土塁と石垣】

 その主郭・二の郭の周囲には土塁が配置されていますが、注目すべきは、主郭の方に巨大な土塁(高さ約2〜5m)を築いていることです。県下でも最大規模の土塁構造であり、異例の防御機能を採っている点は本城の特徴のひとつといえます。

 さらに、両郭の土塁内側や虎口(出入口)には、野面石(自然石)を用いた石垣や石段が構築されており、戦国時代の城郭でこれほどまで石垣が多用されている点もおおきな特徴として挙げられます。つまり、「土造りの中世山城」から「石造りの近世城郭」へと進展していく過渡的な築城技術が、この三瀬地域にいち早く導入されたことを窺わせます。

 このように、三瀬城は勇将神代勝利の居城であるとともに、典型的な中世山城としての構造・特徴を今もなお当時のままに伝えており、県下を代表する貴重な城跡です。

 

平成25年3月 佐賀市三瀬支所