筑前 高祖城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①上ノ城土塁②上ノ城③下ノ城切岸④能古島・志賀島方向⑤可也山・火山方向⑥遠望

 

訪問日:2023年11月

 

所在地:福岡県糸島市

 

 天正2年(1574)豊後の大友宗麟が、家臣・臼杵鎮氏と争ってこれを討ち取った原田了栄の首を要求すると、4男で原田氏当主・原田親種が自らの腹を切って自害するという事件が起こる。

 

 了栄は龍造寺隆信に請うて、次男・草野鎮永(原田種吉)の子で、隆信の人質となっていた五郎を養嗣子とした。五郎は隆信から一字を賜り原田信種と名乗り、天正8年(1580)隆信の娘(または養女)を娶る。

 

 了栄死後の原田氏は、信種の実父・草野鎮永が後見していたが、これに旧来の原田氏家臣団が不満を募らせる。これを知った岸岳城主・波多親が、天正12年(1584)3月に侵攻するが、信種はこれを撃破した。

 

 しかし同年同月、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に大敗し討死してしまう。天正13年(1585)豊臣秀吉が惣無事令を出して九州の諸将に停戦を命じる。

 

 勢いに乗る島津義久はこれを無視、信種は同族の秋月種実らとともに島津氏に従う。天正14年(1586)島津氏が北進を開始、信種も高橋紹運の筑前岩屋城攻めに軍勢を派遣する。

 

 同年、秀吉の九州征伐が始まり、高祖城は小早川隆景らの大軍に包囲され降伏を勧告される。信種は島津氏の援軍を頼りに籠城を決意する決意だったが、結局は戦うことなく降伏を余儀なくされる。

 

 天正15年(1587)秀吉に拝謁し、赦免を受けるが旧領は没収された。所領を尋ねられた信種は怡土・志摩・早良の3郡を領していたが、過小に申告したことが裏目に出たという。

 

 筑後に1万8千石を与えられた信種は、肥後一国の大名となった佐々成政の与力となる。天正16年(1588)成政が肥後国人一揆の責任を取って切腹すると、肥後北半を領した加藤清正の与力となる。

 

 信種は、文禄元年(1592)に始まる文禄・慶長の役に出兵し、慶長3年(1598)第二次蔚山城の戦いで討死した。ただ慶長元年(1596)以降の所在は不明で、それ以前に死去しているという説もある。

 

 信種の死後、長男の嘉種(1584-1660)が家督を継ぐが、清正と対立して所領没収の上追放処分となり、慶長12年(1607)弟の種房とともに唐津藩主・寺沢広高に1000石で仕える。

 

 寛永14年(1637)島原の乱で、嘉種は息子の種長・種清とともに天草の富岡城を死守する。しかし主君・寺沢堅高(広高の子)が失政を問われて改易となり、嘉種は再び浪人となる。

 

 68歳となった慶安4年(1651)江戸にて会津藩主・保科正之に2000石で召し抱えられ、会津表留守役として会津に赴く。原田種次と改名し、明暦3年(1657)種長に家督と1500石を譲り、種清に500石を分与した。

 

 3男・種弼は原田氏分家筋の江上勝種の養子となった。勝種は龍造寺隆信の孫であり、龍造寺伯庵を擁して大名龍造寺氏の復興を訴えて敗訴し、正保元年(1644)伯庵とともに会津藩預りとなっていた人である。

 

 

以下、現地案内板より

 

高祖城  前原市大字高祖

 

 高祖城は高祖山(標高416m)の頂上部に所在する中世山城です。城の縄張りとしては「上ノ城」・「下ノ城」を中心に郭群を形成しています。

 築城時期については不明ですが、天正15(1587)年、豊臣秀吉軍の攻撃によって落城したことが記されています。

 この城は中世糸島地方を治めていた原田氏の居城で、発掘調査の結果、軒丸・軒平瓦等が出土し、当時としては珍しい総瓦葺きの建物が建っていたと考えられます。

 また、日常生活に使用する土器のほかに当時とても貴重であった中国製陶磁器や花瓶なども出土していることから、篭城するためだけの城ではないことも推定されます。

 糸島地方を代表する貴重な文化遺産です。みんあで大切に保存しましょう。

 

前原市教育委員会