筑前 高祖神社 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本殿②本殿③拝殿④神楽殿と鳥居⑤鳥居⑥石段

 

訪問日:2023年11月

 

所在地:福岡県糸島市

 

 本殿が今年の9月25日に国の重要文化財に指定されたばかり。棟札等によると、元亀3年(1572)に原田隆種が造営、元亀3年(1572)に子の親種が修理をしたという。

 

 現在の本殿は、寛文2年(1662)福岡藩3代藩主・黒田光之による再興が基本となっているようだが、柱材には以前のものが再利用されている可能性もあるようだ。

 

 原田氏は、渡来氏族の東漢氏の一族で、壬申の乱の功臣である大蔵広隅を祖とする大蔵氏の嫡流である。国庫の管理・出納を務めた「大蔵」の職名を氏の名としたといい、庶流に秋月氏や高橋氏らがいる。

 

 大蔵春実は、天慶2年(939)藤原純友の乱に小野好古や源経基らとともに出陣し、天慶4年(941)博多津にて純友を撃退、功により従五位下・対馬守兼大宰大監に叙任された。

 

 原田種直は、平重盛の養女(重盛の叔父・家盛の娘)を娶り、大宰権少弐として九州における平氏政権の基盤を築いた。寿永4年(1185)平家滅亡後は所領を没収され鎌倉に13年間幽閉された後、怡土庄を与えられる。

 

 南北朝時代は南朝の懐良親王に与して衰退するが、室町時代後期には高祖城を本拠に原田弘種・興種(それぞれ大内政弘・義興から一字を賜る)が大内氏の家臣として少弐氏と戦い、再興を果たす。

 

 原田氏76代とされる原田隆種は興種の子で、享禄年間(1528-32)に家督を譲られたと推測されている。大内義隆から一字を賜り、その娘(あるいは義興の娘)を正室とした。

 

 天文20年(1551)大寧寺の変で義隆が滅ぶと、義隆を討った陶晴賢には従わず、天文22年(1553)豊後大友氏と結んだ陶氏の弘中隆包らが攻め寄せると、配下の王丸隆や西重通らが寝返り、高祖城は落城する。

 

 降伏した隆種は蟄居となり、筑前には陶氏から弘中が姪浜城に、大友氏からは臼杵鑑続が柑子岳城にそれぞれ入って治めたが、天文24年(1555)厳島の戦いで陶晴賢が滅んだ混乱に乗じて高祖城に復帰を果たす。

 

 弘治3年(1557)晴賢に擁立され大内氏を継いでいた大友宗麟の実弟・大内義長が毛利氏により滅ぶと、筑前の大内領は大友氏のものとなり、隆種も大友氏に属することになる。

 

 同年、家臣・本木道哲が嫡男・種門と3男・繁種を讒言、これを信じて2人を謀反の疑いで謀殺してしまう。次男・草野鎮永は養子に出しており、寵愛する4男・親種(1544-74)を嫡子とする。

 

 永禄9年(1566)岩屋城主・高橋鑑種が毛利氏に内通して大友氏に叛旗を翻すと、隆種(出家して了栄)は病を理由に出兵を断り、これも毛利氏に内通して親種を人質として安芸に送る。

 

 永禄10年(1567)西鎮兼の宝珠岳城などを落として西氏を滅ぼし、大友氏への叛旗を鮮明にする。永禄11年(1568)には立花山城主・立花鑑載も大友氏に叛旗を翻す。

 

 立花への援軍には親種も加わっていたが、敗れて高祖城に向け敗走する。了栄は援軍を派遣して追手を撃退するが、嫡孫・秀種らを失い、毛利勢の撤退を知って筑前に侵攻した肥前の龍造寺隆信に降伏する。

 

 永禄12年(1569)大友氏と龍造寺氏の和睦により大友氏に復帰する。しかし元亀3年(1572)大友氏家臣の柑子岳城代・臼杵鎮氏との抗争となりこれを討ち取る。これを知った宗麟は激怒した。

 

 天正2年(1574)宗麟は鎮氏の兄・臼杵鎮続を派遣して了栄の首を要求すると、親種が自らの腹を切ってしまう。臼杵側に検死の上帰還を求めたところ、首を持ち帰ると言って了栄を激怒させた。

 

 親種を失った了栄は龍造寺隆信に請い、人質に出していた孫(草野鎮永の子)を養嗣子として、隆信の一字を賜り原田信種とした。天正6年(1578)宗麟が耳川の戦いで薩摩島津氏に大敗する。

 

 筑前はまたもや混乱に陥り、筑紫広門・秋月種実・宗像氏貞が相次いで龍造寺氏に内通して叛旗を翻し、了栄もこれに同調し、天正7年(1579)にかけ大友方の立花道雪らとの生松原合戦となる。

 

 そして大友方の木付鑑実が守る柑子岳城を攻略、志摩郡を手中にした。天正9年(1581)原田勢が隆信とともに安楽平城を攻略した頃、了栄は死去した。かなりの高齢と思われるが、その生没年は不明である。

 

 

以下、現地案内板より

 

高祖神社創立の由来

 高祖神社は彦火々出見尊を主座に、左座に玉依姫命、右座に息長足姫命の三柱をお祀りする神社で、いま創建の時を詳かに出来ないが、九州諸将軍記には『神代より鎮座あり神功皇后三韓より凱旋の後、当社の社殿を乾の方に向け御建立』と記されている。この機縁で神功皇后を相殿にお祀りした、と伝えている。

 当社は、古代から怡土郡の惣社(中世には怡土の庄一の宮)と崇敬される神社で、三代実録には、今から約1100年前の元慶元年9月25日癸亥『正六位高礒比賣神に従五位下を授く』と記されている。この高礒比賣神とは高祖神社のことで、相殿に玉依姫命、息長足姫命をお祀りしてあるので、このように呼ばれていると語り伝えている。

 明治5年11月怡土郡郷社、大正4年11月神饌弊帛料供進社、大正15年6月29日県社昇格、昭和28年7月20日域外境内社として高祖椚に幸神社、庚申社、高祖浦方に天神社を含め宗教法人高祖神社を設立し高祖区民の崇敬を集めている。また境内神社として伊弉諾神社、思兼神社、農業、特に畜産農家の信仰厚い徳満神社の三社がある。

 

祭典(年間)

1月1日 元旦祭 高祖子ども会育成会による高祖山初日拝み登山

4月第4日曜日 春大祭 高祖神楽奉納

6月第4日曜日 夏大祭・千度潮井 茅の輪くぐり

9月1日 風止祭

9月13日 徳満宮大祭・酪農祈願祭

10月第4土曜日 秋大祭 高祖神楽夜神楽奉納

10月31日 神立祭

11月30日 神待祭

12月上旬 神社総代研修会・大麻頒布祭

12月中旬 大注連縄作り

 

高祖神社

 

 

福岡県指定有形文化財(建造物)

高祖神社 本殿・拝殿

 

1、神社の歴史 

 高祖神社の創建は定かではありませんが、平安時代(901年)に成立した歴史書『三代実録』には、元慶元(877)年9月に、「筑前国の正六位高礒比賣神に従五位下を授けた」とあり、これが初見と言われています。1100年以上の歴史を有する高祖神社は、鎌倉時代以降の記録に、「怡土郡一宮」「怡土庄鎮守」などと記され、江戸時代には、筑前続風土記附録によると、福岡藩が領内の各郡に置いた「郡の宗廟」のひとつとなりました。16世紀ごろからこの一帯を拠点とした原田氏は、高祖神社を大切にし、永正4(1507)年に原田興種が神社を建立し、その後も、興種の子隆種、その子親種が社殿の再興や社領の寄進をしたことなどの記録が残っています。江戸時代になるとこの地域は福岡藩の領地となりますが、黒田家も高祖神社を手厚く保護し、3代藩主光之が本殿再興の際に材木を寄進し、また、4代藩主綱政は鳥居寄進・絵馬奉納などを行なっています。

寛政6(1794)年には9代藩主斉隆が領内巡検の折りに参拝しています。

2、福岡県指定有形文化財(建造物)

 平成24(2012)年、本殿と拝殿が、石造明神鳥居1基、鳥居正面石段1基、棟札8枚とともに、福岡県の有形文化財に指定されました。本殿は、三間社流造の形式で、屋根は檜の皮で葺く檜皮葺です。現在の本殿は、棟札や建物調査などによると、天文10(1541)年に原田隆種が建立し、元亀3(1572)年に原田親種が修理し、さらに、寛文2(1662)年に藩主黒田光之が改築したと考えられます。拝殿は、3間×3間の規模で、屋根は入母屋造瓦葺、天井は中央部が格天井で周囲が化粧小屋裏となっています。享保16(1731)年に建てられた記録があり(「棟札写」)、現在の拝殿はこの時に建てられたものと考えられます。石造明神鳥居は、花崗岩製で高さ約5m、福岡藩4代藩主綱政が元禄6(1693)年に寄進して建てられたことが、刻まれた銘などにより、分かります。

3、平成の大修理

 棟札は県の指定を受けたものも含めて13枚が確認されていますが、それらには、その時々に行なわれた工事の内容や関わった人の名前が記されています。それによると、大小行なわれた工事の内、寛文2(1662)年の工事が現在の社殿の姿の基本となっていることが分かりました。そこで、長年の風雪に耐えてきた社殿にも傷みが目立つことから、保存修理事業が計画され、寛文期の姿に復原する方針で、平成25(2013)年から平成28年にかけて修理工事が行なわれました。工事に伴い詳しい調査が行なわれ、新たな棟札や本殿内の龍の墨絵の発見、本殿の周りの三方縁が一時期四方縁であったことの確認、さらには退色した顔料の分析による色の確定などの成果があり、貴重な情報が得られるとともに、工事に活かされました。修復に当たっては、可能な限り古い部材をそのまま使い、腐食や欠損で交換や補充が必要なところは、昔ながらの方法で部材を整形し、工事を進めました。今回新たになった箇所には「平成28年修理」の焼き印を入れています。本殿の屋根の葺き替えは50年ぶりでした。神社周辺の檜から採取した檜皮も含めて、幅15cm長さ75cm程の檜皮を、少しずつずらしながら重ね、竹釘で固定する伝統的な手法で檜皮葺きが行なわれました。彩色や金箔の痕が確認された部分は、同じ材質のもので忠実に復原されました。こうして、平成28(2016)年、工事は無事完了し、高祖神社はかつての輝きを取り戻しました。

 文化財は、先人が私たちに残してくれた貴重な財産です。大切に保存・活用しながら、後世に伝えて行きましょう。

 

平成29年3月 糸島市教育委員会