筑前 怡土城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①城址碑と高祖山②大鳥居口土塁③土塁線④第三望楼跡⑤第五望楼跡⑥再現模型

 

訪問日:2023年11月

 

所在地:福岡県糸島市

 

 佐伯連・宿禰は、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊を先導した天押日命の裔とされる大伴室屋を祖とする。ヤマト王権が捕虜とした蝦夷(毛人)を西日本に移住させ編成した「佐伯部」を率いた。

 

 用明天皇2年(587)蘇我馬子の命で物部守屋が推す穴穂部皇子らを討った佐伯丹経手や、皇極天皇4年(645)中大兄皇子の従い蘇我入鹿にトドメを刺した佐伯子麻呂らが知られる。

 

 佐伯若子は、養老3年(719)佐伯人足の子として生まれた。聖武天皇の時代の天平14年(742)紫香楽宮造営司主典を務め、天平15年(743)には東大寺造営に領催検として携わり、聖武天皇の信頼を得る。

 

 天平19年(747)大和小掾となり、若子から今毛人に改名する。天平20年(748)造東大寺次官、天平勝宝元年(749)孝謙天皇に即位に伴って大和介となり、天平勝宝7年(755)造東大寺長官となる。

 

 淳仁天皇の天平宝字3年(759)には造西大寺長官さらに摂津大夫を務め、天平宝字7年(763)再び造東大寺長官となる。この間官位も正八位下から従四位下まで昇格した。

 

 しかし同年、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・大伴家持とともに企てた藤原仲麻呂の暗殺計画を密告され捕えられる。宿奈麻呂が単独犯を主張したため断罪は免れるも、天平宝字8年(764)営城監として九州に左遷される。

 

 同年には孝謙上皇・道鏡と対立した仲麻呂があっけなく滅ぶ(藤原仲麻呂の乱)。これにより淳仁天皇は廃されて淡路に流され、上皇が重祚(称徳天皇)して道鏡との二頭体制となる。

 

 天平神護元年(765)仲麻呂派であった大宰大弐・佐伯毛人が多褹嶋守(種子島など大隅諸島)として左遷されるとその後任として復権、さらに築怡土城専知官に任ぜられ、吉備真備から怡土城築城事業を引き継ぐ。

 

 神護景雲元年(767)左大弁兼造西大寺長官として都に復帰、神護景雲4年(770)称徳天皇が崩御すると、失脚した道鏡は造下野国薬師寺別当として左遷され、今毛人が派遣され、任地へ出発させた。

 

 宝亀6年(775)第16次遣唐大使に任ぜられ、翌年出航し、肥前国松浦に至るも、風が悪く博多に引き返し、渡海の翌年に延期を奏上して認められ、帰郷して節刀を返上する。

 

 宝亀8年(777)再び節刀を賜り出発するも、直後に病として難波津からの出航ができず、光仁天皇は遣唐副使・小野石根に職務の代行を命じた。今毛人は左大弁を解任される。

 

 宝亀9年(778)務めを果たして帰国の途についた石根の第1船が遭難、石根は死亡した。宝亀10年(779)今毛人は大宰大弐に任ぜられて復権する。

 

 天応元年(781)桓武天皇の即位に伴い正四位上に昇叙、天応2年(782)従三位・左大弁に昇叙されて公卿に列する。延暦3年(784)藤原種継らとともに造長岡宮使となる。

 

 同年参議、延暦4年(785)正三位・民部卿に昇叙。延暦5年(786)大宰帥として再び九州に赴任、延暦8年(789)致仕を許され引退、翌延暦9年(790)72歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

国史跡 怡土城跡 (昭和13年8月8日指定) 糸島市高来寺、大門、高祖

 

 怡土城は高祖山西斜面に大宰大弐(大宰府の次官)で後の右大臣となる吉備真備によって築かれた奈良時代の山城です。『続日本紀』には756(天平勝宝8)年から約13年間を要して築城されたことが記されています。

 当時の遺構としては、北西尾根線上に5ヶ所、南西尾根線上に1ヶ所の望楼(物見やぐら)跡や山裾に南北2kmにわたる土塁(防御用の城壁。復原高約10m)が残っています。また、これまでの調査で土塁の外側に幅約15mの濠が確認されました。

 怡土城の最大の特徴は高祖山の山頂から山麓にかけて「たすき」を掛けるように土塁を設けたことにあります。これは中国式山城の影響を強く受けたものとされ、遣唐使として中国に渡り、様々な技術を学んだ吉備真備の発案によるものと考えられています。

 怡土城築城の目的については、8世紀中ごろに新羅征討が論じられた際にその一環として築城されたという説と唐で755年に勃発した「安禄山の乱」に備えるためのものとする説があります。

 その後、平安時代には一時廃れましたが、中世(戦国時代)の糸島に勢力を張った原田氏がこの城を利用して「高祖城」を築き、1587(天正15)年に豊臣秀吉に滅ぼされるまで拠点としました。

 糸島地域を代表する貴重な文化遺産です。みんなで大切に保存しましょう。

 

糸島市教育委員会

 

 

国史跡 怡土城跡

(昭和13年8月8日指定、昭和19年6月5日、平成19年3月23日追加指定)

糸島市高来寺、大門、高祖

 

 怡土城は、糸島市と福岡市の境にある高祖山の西斜面に築かれた奈良時代の山城です。古代の歴史書『続日本紀』には天平勝宝8(756)年6月に工事に着手し、神護景雲2(768)2月に完成したことが記されています。築城は当初、吉備真備が担当し終盤は佐伯今毛人に交替しました。

 城の規模は全周約6.5km、面積は約290haに及ぶと考えられています。遺構としては北西尾根線上に5ヶ所の望楼(物見やぐら)、南西に4ヶ所の礎石群(物見やぐらまたは建物跡)があり、山裾には南北約2kmにわたって土塁(城壁、復原高約10m)が伸びています。土塁の外側と内側の一部には濠があり、守りを固めていたと考えられています。

 この説明板のある場所の大字は「大門」といいますが、これは城門のあった名残が地名として伝わったものといわれています。怡土城には5ヶ所の城門があったと考えられていますが、ここは城の正門にあたる大手口があったという説があります。

 怡土城の築城目的は、8世紀中ごろに新羅征討が論じられた際にその一環として築城されたとする説と唐で755年に勃発した「安禄山の乱」に備えるためとする説があります。

 怡土城は平安時代に一時廃れましたが、中世になると糸島を勢力基盤とした原田氏がこの城を利用し「高祖城」を築き、天正15(1587)年に豊臣秀吉の九州平定により廃城となるまで使われました。

 糸島地域を代表する貴重な文化遺産の一つです。みんなで大切に保存しましょう。

 

糸島市教育委員会

 

 

国史跡 怡土城跡

(昭和13年8月8日指定、昭和19年6月5日、平成19年3月23日追加指定)

 

 怡土城は、高祖山の西斜面に築かれた奈良時代の山城です。大陸からの侵攻に備えて、天平勝宝8(756)年に築造に着手し、神護景雲2(768)に完成しました。城の規模は全周約6.5km、面積は約290haに及びます。北西部の尾根線上に5ヶ所の望楼跡(物見やぐら)、南西部に4ヶ所の礎石群(物見やぐら又は建物跡)、西側の山裾には南北約2kmにわたって土塁(城壁)が築かれています。土塁は10m前後の高さがあり、自然の段丘を利用し、盛土するなどして築かれました。盛土には、層状に土を突き固める版築という技術が使われています。右の写真は、昭和11(1936)年頃。現在の高来寺公民館の敷地で撮影されたもので、県道工事に伴う土取りにより土塁の断面が露呈しています。人物の頭付近が元々の自然の地形であり、その上に版築により盛土され、土塁が造られています。縞状の版築の様子が確認できます。

 

糸島市教育委員会

 

 

国史跡 怡土城跡

昭和13年8月8日指定、昭和19年6月5日追加指定

糸島市高来寺、大門、高祖

 

 怡土城は、糸島市と福岡市の境にある高祖山西斜面に築かれた奈良時代の山城です。『続日本紀』には、756(天平勝宝8)年6月から768(神護景雲2)年2月まで約12年を要して完成したと記されていて、築城の責任者大宰大弐(大宰府の長官)であったは当初、吉備真備でした。

 遺構としては、北西尾根線上に5ヶ所、南西尾根線上に1ヶ所の望楼(物見やぐら)跡があり、山裾には南北約2kmにわたって土塁(防御用の堤防。復原高約10m)が走っています。これまでの調査で、部分的ではあるものの土塁の前面にはテラス状の構造が確認され、土塁の外側には幅約15mの濠があったこともわかっています。

 怡土城の特色の第一点は、正史に築城の担当者とその期間が明確に記載され、遺跡の所在地も確認されていることです。

 第二点は、築城する際に中国式山城の築城法が採用されていることです。朝鮮式山城は土塁を山の等高線にそって「はちまき」状に築きますが、怡土城は高祖山の急斜面から平地部にかけて「たすき」状に土塁を設けています。この背景には遣唐使として二度にわたって中国に渡り、特に兵法に長じた吉備真備の存在があると考えられます。

 第三点は、築城のために「防人」までも動員していて(『続日本紀』)、急を要する事業であったことがうかがわれることです。

 この築城の目的については、8世紀中ごろに新羅征討が論じられた際にその一環として築城されたと考える説と、唐で755(天平勝宝5)年に勃発した「安禄山の乱」に備えるためと考える説があります。

 さらに、海岸部と日向峠を見渡すことができ、「主船司」(船を管理する役所;現周船寺)とも隣接することからこれらを含めた軍事的構想のもとで築城されたと理解することもできます。

 その後、中世(戦国時代)の糸島を支配した原田氏は、この場所を再利用して「高祖城」を築き、1587(天正15)年に豊臣秀吉に滅ぼされるまで拠点としました。

 

 

史跡怡土城跡 第五望楼跡

 

 怡土城は天平勝宝8年(756)に大宰大弐吉備真備によって築城が始められ、13年の歳月を費して佐伯今毛人の手によって完成された古代山城の一つです。高祖山西側斜面一帯が城域と想定されますが、現在確認されている遺構は土塁と望楼跡で、今後の調査が必要です。

 この第五望楼跡は、昭和53、54年の調査によって、ほぼその構造が推定できるようになりました。怡土城には5ヶ所の望楼があったとされ、その最も北方に位置するものです。

 規模は左図のとおりですが、2間×3間の礎石をもつ二層程度の瓦葺建物であったと思われます。北方の海岸線に来襲する軍船に備える見張所で、大宰府への連絡中継基地の機能を荷負っていたものです。

 

糸島市教育委員会

 

 

怡土城と吉備真備

 

 怡土城が築かれたのは、今から約1,250年前の奈良時代のことです。西暦756年に孝謙天皇の命令で、大宰大弐の吉備真備を専当官として築城が始められました。真備は築城の途中、764年に造東大寺長官として転任したあため、後任に佐伯今毛人が着任し、築城にあたりました。城の完成をみたのは768年で、築城が始められてから12年後のことです。緊張した東アジア情勢の中で大陸からの侵攻に備えたものですが、幸いなことに、実際に城として機能したことはありませんでした。

 吉備真備(693~775)は、現在の岡山県倉敷市真備町周辺の出身で、吉備大臣ともいわれまいた。23才の時、遣唐留学生に選ばれ、717年、阿倍仲麻呂・僧玄昉などと共に入唐し、18年後の735年に帰国しました。さらに751年には遣唐副使として再び入唐し、754年に帰国しました。二度にわたる中国への渡航によって、儒学・兵学・天文学・歴史学・音楽などを幅広く究め、帰国後にあたった怡土城の造営にもその知識は活かされました。中央政界に戻った後は律令国家の整備に力量を発揮し、正二位・右大臣まで昇進しました。 

 高祖山の麓に連なる土塁は怡土城創建当時の城壁です。築城以来1,250年余りの長い年月、風雪に耐えてきた貴重な文化財です。