摂津 生島神社 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①拝殿②社殿③生島稲荷社④境内社⑤参道⑥鳥居

 

訪問日:2023年10月

 

所在地:兵庫県尼崎市

 

 源実国は、寛仁4年(1020)源頼国の4男として生まれた。頼国は源頼光の長男であり、清和源氏の嫡流だが、武人というより文人として活動した。母は播磨守・藤原信理の娘。

 

 同母兄に源頼弘(蜂須賀氏の祖)、源頼実。異母兄に源頼資。異母弟に摂津源氏嫡流を継いだ源頼綱、源師光や、美濃で河内源氏の源義家と戦った源国房らがいる。

 

 また、妹の六条斎院宣旨は『狭衣物語』の作者である可能性が高い。『狭衣物語』は11世紀後半に成立した全4巻の物語で『源氏物語』の影響が見られるという。平安時代末期にはよく知られた作品であった。

 

 実国は、検非違使・左衛門尉・春宮大進・備前守・土佐守・播磨守・常陸介などを歴任し、最終官位は従四位上、承暦4年(1080)61歳で出家したと伝わるが、没年は不明である。

 

 新たに生島庄を開発し、嫡子・源行実から源顕行・雅行さらに子孫代々へ相伝されたといい、摂関家に仕える中下級貴族の家系として続いた。

 

 玄孫の源国基(土佐守)は、源頼朝の一族として親密な関係だったと考えられている。貞応3年(1224)摂関家の使者として鎌倉に下ったとの記録が残る。

 

 

以下、現地案内板より

 

生島社

 

 立花地区の上ノ島・栗山・大西・三反田の各町は、昔は生島と呼ばれていた所です。この地は、天長7年(830)に朝廷の財力によって開発され、平安時代の終りごろ、康治元年(1142)に開発領主源実国の子孫が、時の関白藤原忠通に寄進した「生島庄」に当ります。同じころ、僧澄海が大般若経を「生島大明神」に献じたとあり、生島社の文献上初見といえます。

 平安時代の神社を知る「延喜式神名帳」には、大阪市天王寺区にある生国魂社は「生島巫祭神二座・・・・・・生島神・足島神」を祭っています。生島神社はこの大阪生国魂社の元宮の伝承があり、生島庄の鎮守としてこの二神を祭る共に、摂関家の氏神である春日神社の諸神を祭ったものと思われます。同庄の中心は、生島村と呼ばれていた三反田町から次第に開発が北部に延びるにつれて、大西・栗山両町へ移り、この栗山の地に現在の生島弁財天が遷宮されたものでしょう。桃山時代の慶長5年には池田輝政・福島政則禁制が「いく島」に出され(現在栗山の旧家に保存)、同19年に出された松平利隆禁制と共に村切り(4村分割)前の生島庄の中心がここ栗山に移ったことと関係深いものです。

 

尼崎市教育委員会

 

 

御由緒

御祭神  

生島神 足島神

 (生島神、足島神は生国魂大神、咲国魂大神とも申し伊佐那岐・伊邪那美神の御子で大八州〈日本の国土〉の御魂であります。すなわち大地ならびに生命の営みをつづけている一切を守護なさる神様であります)

天照大神、須佐男神、八幡大神、伊邪那岐神、伊邪那美神

御鎮座

 創立は仁徳天皇の御代と伝えられ、社伝によれば人皇第16代仁徳天皇当地方に行幸のみぎり、生島巫神を鎮めた給ひ、其の後天皇都を高津(大阪)に遷されるや、当生島巫神を大阪の庄石山崎(現在の大阪城付近)に遷座さられ尓後生島庄栗山村巫神の別霊を祭祀、一祠を存続せられたと、今尚当地に於ては、大阪生国魂神社より、その創祀古しと伝えられている。

 この事柄は「三代実録、摂津志」に明記せられて居り、明治維新前迄は生島明神、生島辨財天の称を以って知られ、生島宮寺を廃し、生島神社と改め明治6年8月郷社に列せらる。

 大正3年6月27日生島庄の内上ノ島村々社須佐男神社を合祀、同年7月1日同じく大西村々社熊野神社合祀、大正4年12月9日同じく三反田村々社八幡神社合祀して現代に至る。

御神徳

 御祭神の「生」という意味は、生成、進歩、完生ということを申し、また「足」という意味は。充実、繁栄、発展ということを申すのであります。

 御祭神はこの大地の御守護とともに大地に生をうけているあらゆるものの生命の完成を御統括されるのであります。

境内社

 生島弁財天(市杵島姫命)

 生島稲荷社(宇迦之御魂大神)

 交通神社

 大師堂

元旦祭 1月1日

春祭 4月14日 辨財天御開帳・稲荷社初午祭

夏祭 7月14日 湯立神事・茅の輪くぐり 人形神事

秋祭 10月14日 例大祭日

年越大祓 12月31日 除夜祭