摂津 伊佐具神社 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①拝殿②白龍稲荷神社③五輪塔④境内⑤鳥居⑥浄徳寺観音堂

 

訪問日:2023年10月

 

所在地:兵庫県尼崎市

 

 元弘2年(正慶元年・1332)12月、後醍醐天皇の皇子・護良親王の挙兵に呼応した楠木正成の軍が摂津芥川(高槻市)まで進出すると六波羅探題は宇都宮公綱と赤松則村を派遣してこれを撃退した。

 

 しかし元弘3年(1333)1月、則村は護良親王の令旨を受けて挙兵、幕府方に内通した一族の高田祐長の西条山城を攻め、これを自害に追い込んだ。

 

 次いで六波羅探題の命を受けた備前国守護・加持氏の先発隊・伊東惟群を備前三石にて破り、これを服従させて合力を決意させ、三石城に残して東上を開始する。

 

 そして摂津長洲荘の代官であった長男・赤松範資が築いた摩耶山城に入る。2月、六波羅探題の命を受けた近江国守護・佐々木(六角)時信ら2万の軍が攻め寄せるがこれを撃退する。

 

 その後、則村は久々知・酒部(尼崎市)に進出し、3月には六波羅軍が瀬川(箕面市)に布陣して対峙するが、尼崎に上陸した幕府方の阿波国守護・小笠原勢の奇襲を受け、僅か50騎で帰陣した。

 

 則村は3男・赤松則祐の進言を容れ、約3000兵で瀬川の23万が陣を構える六波羅勢に夜襲をかけて打ち破ったという(太平記)。数はともかく勢いに乗る赤松勢は桂川を越え東山まで攻め込む。

 

 しかし、六波羅側も光厳天皇を六波羅に迎え、兵を大量に投入して迎撃、赤松勢は総崩れとなって男山に敗走する。4月には鎌倉から名越高家と足利高氏(尊氏)を大将軍とする追討軍が上洛する。

 

 これを知った則村は迎撃に出る。高氏はすでに幕府に叛くことを決意しており、久我畷の戦いで赤松一族の佐用範家が高家を討ち取り、高氏はその後丹波篠村で討幕に兵を挙げる。

 

 5月、則村は高氏や千種忠顕、結城親満らと合流して京都を包囲、ついに六波羅探題を陥落させる。

 

 

以下、現地案内板より

 

伊佐具神社

 

 『延喜式』(10世紀初めに編さんされた法令集)のなかの神名帳にしるされた摂津國河辺郡七座の第一の神社です。当社は市内で唯一の式内社の格式をもち、祭神は、伊狭城入彦皇子といわれています。上坂部・下坂部は大彦命の子孫である坂合部連が住んでいた土地ともいわれ、久々知の地名も命の子孫久々智氏から名付けられたようです。

 当社は朝廷より神酒を賜わる例になっていたといわれ、また神酒を上坂部で醸造したため、酒部といったともいわれています。さらに一説では、神崎の地名が当神社の前という意味の神前から起ったと伝えられています。

 またこの地域一帯は、元弘の変(1333年)の時、後醍醐天皇のため奮戦した赤松円心ゆかりのところで、境内には円心の墓と伝えられてきた五輪塔も残されています。

 

尼崎市教育委員会

 

 

式内 史蹟 伊佐具神社由緒

 

御祭神  五十狭城入彦尊 他二柱不詳

配祀  宮八幡宮 金刀比羅神社 愛宕神社 天満宮

末社  白龍稲荷神社(福円山浄徳寺跡)

 主神五十狭城入彦尊は景行天皇第十皇子であり武勇にすぐれ御兄日本武尊(熱田神宮御祭神)と共に諸国を平定されたのである 兄宮に勝るとも劣らざる英知の大神にして庶民その偉功に景仰し社殿を営み当地に奉祀されたのであります されば昔より今日に至るまで国土の守護神 厄除開運の御神徳を以って旧川辺郡内筆頭の座に置かれ官幣社として奉られてまいりました 尼崎市内六十六神社の中で唯一つの延喜式内社で神仏混合の社殿五輪塔水輪部 福円山浄徳寺銘入りの鰐口等神仏混合の形をそのままとどめており尼崎市教育委員会から史蹟として指定されておりますように由緒ある古社であります 社務所内の長壽殿には縁結びの神 安産の神が奉祀されております 由緒書は社務所までおいで下さい。

 

 

この五輪塔水輪部と石造物は赤松円心とその他ゆかりの人々の墓とされている。

元弘年間(1333)赤松円心は久々知酒部(坂部)で激戦す。

その時当神社にて必勝祈願の為甲冑太刀等を献じたと伝承されている

赤松盛衰記参照

平成22年5月吉日

 

 

御由緒

このお社の御本尊は伊佐具神社境内の稲荷社に奉祀されていましたが明治の神仏分離令によりこの地に移転されました。神呪寺に属す福円山淨徳寺と称し霊験あらたかな観音様で信仰心の篤い人達により維持されています。証として元禄拾弐年正月吉日刻印の鰐口を伊佐具神社で保存しています。霊験あらたかなお地蔵様も日夜参詣が絶えません。

平成18年9月 謹書宮司