摂津 伊居太神社(尼崎) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①拝殿②社殿③拝殿④鳥居

 

訪問日:2023年10月

 

所在地:兵庫県尼崎市

 

 大阪府池田市にも伊居太(いけだじんじゃ)があるが、こちらは「いこたじんじゃ」と訓む。いずれも『延喜式神名帳』掲載の摂津国河辺郡の伊居太神社の論社である。

 

 坂合部磐鍬を大使とする第4回遣唐使は、斉明天皇5年(659)7月に難波を発ち、8月11日に筑紫を発つ。百済情勢の緊迫化のため、朝鮮半島を北上できず、江南路をとった。

 

 しかし9月15日、東シナ海で磐鍬らの第1船は逆風を受けて遭難、南海の爾加委島(喜界島か)に漂着し、島民による略奪に遭い、磐鍬らは殺害されてしまう。

 

 磐鍬の縁者と思われる坂合部稲積や東漢長阿利麻ら5人は島民の船を奪って脱出し、括州(現・浙江省麗水市)に到達する。州県の官人に東京(洛陽)まで送り届けられたという。

 

 島民の船というとそれほど大きくない船と思われるが、当時の遣唐使らの命を懸けた勇気には死亡した人も含めて感心させられる。

 

 第2船の遣唐副使・津守吉祥らは無事に東京にて皇帝・高宗への謁見を果たしていたが、唐が百済を滅ぼした後の、斉明天皇6年(660)9月12日まで西京(長安)にて幽閉されていた。

 

 稲積らは同年(660)10月19日、東京で吉祥らと再会、11月1日には百済王・義慈王ら王族貴族約50名が護送されるのを目撃している。その後は吉祥らとともに帰国の途についたと思われる。

 

 斉明天皇7年(661)4月1日に越州(現・浙江省紹興)を出航するが、暴風に遭って漂流し、耽羅(済州島)に漂着するも無事に帰国している。

 

 稲積のその後の消息は不明。天武天皇13年(684)の八色の姓の制定により、坂合部連は宿禰姓を与えられた。

 

 坂合部氏では他にも坂合部磐積(第2次・学生653~654)、坂合部大分(第8次・副使702~704、唐に留まり第9次717~718で帰国)らが遣唐使に任命されている。


 

以下、現地案内板より

 

御祭神

武甕槌神  歳旦祭 1月元旦

天児屋根命  春季祈年祭 3月1日

經津主神  秋季例大祭 10月9日

姫大神  新嘗祭 12月12日

配神

市杵島姫命(厳島神社)

大将軍(皇大神宮遥拝所)

沿革と由緒

 当神社は、前方後円墳の後円部のほぼ中央に鎮座する弥生時代以来の集落の存在する地で、現在兵庫県尼崎市下坂部4丁目13番26号である。

 新撰姓氏録摂津神別に「坂合部大彦命之後也允恭天皇御世造立国境之標因賜姓坂合部連」と記載されている坂合部氏族の居住地で、その子孫坂合部朝臣として朝廷に奉仕し、この地を開拓して土地の名を坂合部と称し、何時の日か下坂部と称するに至る。

 尼崎市内に残存する古墳中最大のこの古墳こそ、氏族祖神の墳墓の地である。其の後墳上に神社を建立し、祖神を崇敬したものと思料せられるも創祀年歴等は不詳である。

 当初は、前掲の如く氏族の首長大彦命及び、その後胤を祀る神社であったが、藤原氏の全盛期当地方を支配した際その祖神たる春日大社を勧請奉祀したものと信じられる。

 人皇第60代醍醐天皇制定された延喜式神名帳に、摂津川辺郡に伊居太神社ありとあるのは、正に当神社のことである。

 古老の伝うる処によれば、昔大和の春日大社より神の使者として神鹿が当神社に到来したと云う。

 後世江戸時代に至り青山氏がこの地を采配する、青山氏亦藤原氏の後胤にして春日社はその祖神である。

 平成7年1月17日未明、阪神淡路大震災により大災害を蒙り氏子崇敬者の浄財で平成11年4月吉日新社殿手水舎等が竣功した。

 現に奉祀せられる神神は天孫降臨に功績があり、我国創業の偉業に参画し国内を平定平和を希ふ神なれば家内安全厄除招福の神として崇敬せられる。

 

平成十一己卯年五月 伊居太神社