和泉 日根神社/慈眼院 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①日根神社拝殿日根神社本殿③日根神社本殿④比賣神社⑤慈眼寺多宝塔⑥慈眼寺金堂

 

訪問日:2017年2月

 

所在地:大阪府泉佐野市

 

 日根野氏からは大名となった日根野弘就を輩出している。弘就の父・日根野九郎左衛門尉が和泉から美濃に移り住み、弘就は斎藤義龍のもとで台頭し、その子・龍興にも重用された。

 

 永禄10年(1567)稲葉山城が織田信長により落城して龍興が越前に落ちると、弘就ら一族は流浪の末に遠江で今川氏真に仕えたが、永禄12年(1569)氏真は徳川家康に敗れて没落、弘就一族もまた浪人となった。

 

 次に近江の浅井長政に仕えたが、元亀3年(1572)長島一向一揆に加わり、越前の龍興と連絡を取って本願寺の支援のもとに美濃奪還を図るも果たせず、天正2年(1574)長島一向一揆は壊滅した。

 

 脱出した弘就一族はやがて信長に降伏、天正3年(1575)には越前一向一揆討伐に参陣した。天正4年(1576)和泉の日根野孫次郎に宛てた手紙が現存している。

 

 孫次郎は日根野若狭守の家臣で、和泉日根野氏は信長に与し、同年の天王寺の戦いで孫次郎は負傷している。そしてこの年、日根神社は根来衆の攻撃を受け炎上した。

 

 また、弘就の3男・弘正は、姓を日根と改めて徳川家康に仕え、その嫡男・松平信康付となったが、天正7年(1579)信康の自刃事件に連座し、子の正吉とともに和泉国日根郡に蟄居している。

 

 弘正の孫・日根正重の時に江戸幕府膳所台所人となり、曾孫・日根正富以降は旗本として存続したという。一方、弘就の長男・日根野高吉は信濃国高島城2万7千石の大名となった。

 

 しかし、高吉の子・日根野吉明は、豊後国府内城2万石を領したが、明暦2年(1656)死去すると、末期養子が認められず、大名としての日根野氏は断絶した。

 

 弘就の次男・日根野吉時の流れも旗本として続いた。和泉日根野氏のその後についてはよくわからないが、南画の巨匠・日根対山(日根野盛長1813-69)は、その末裔という。