①国宝慈願院多宝塔
②同金堂
③日根神社本殿
④同拝殿
⑤比賣神社
⑥日根荘遺跡•長福寺
訪問日:2017年2月
所在地:大阪府泉佐野市
慈眼院は神仏習合においては日根神社の神宮寺であった。国宝の多宝塔や金堂の拝観は要予約だが、日根神社の門扉の隙間から写真は撮ることができた。
九条政基は文安2年(1445)元関白・九条満家と唐橋在豊の娘との子として生まれた。5歳年長の異母兄・政忠が家督を継ぎ内大臣となっていたが、政基との間に家督争いが生じる。
政忠は政基擁立に奔走した唐橋在治(政基の母の兄)を恨みその暗殺を計画するが、これが将軍・足利義政の耳に達し、寛正6年(1465)政忠は隠居して政基が家督を継いだ。
応仁2年(1468)右大臣、文明7年(1475)左大臣、文明8年(1476)には関白に就任したが、応仁の乱以降九条家は経済的に困窮し、執事の唐橋氏にも借金をしていたようである。
文明11年(1479)関白を辞した政基は、文明14年(1482)には家督を嫡男・尚経に譲って隠居した。また、延徳3年(1491)には実子のない管領・細川政元に3歳の息子を養子に出している(細川澄之)。
延徳元年(1489)在治の死後、跡を継いだその子・在数が九条家の家領・日根荘からの段銭の穴埋めのため根来寺から融資を受けた際の抵当となったいた日根荘喪失の危機となり、その責任を巡って政基父子と対立する。
明応5年(1496)談判のため九条邸に押し掛けた在数を政基父子は殺害してしまう。唐橋家と同じ菅原氏一門の高辻長直らが政基父子を告発し、父子は勅勘に処せられ、出仕を禁じられた。
明応7年(1498)勅勘が解かれて剃髪したが、当時の公家社会ではなお唐橋家への同情と九条家への不信・嫌悪感が広がり、九条家の威信は低下した。
文亀元年(1501)和泉国守護方に押領されつつあった日根荘に下向し、長福寺に滞在して、永正元年(1504)まで荘園の直務支配に従事した。
永正13年(1516)72歳で死去、法号を慈眼院という。
以下、現地案内板より
府指定文化財 慈眼院 木像 大日如来坐像
昭和51年3月31日指定
昭和51年3月31日指定
多宝塔内に安置されている本尊は、智挙印を結ぶ金剛界大日如来で寄木造、漆箱、彫眼、像高70.2糎、浅い彫り、少ない衣紋線、丸顔など藤原時代彫刻の優美さの名残りが見られる。その優美さに量感と緊張感が加わり堂々とした威風に新しい時代の息吹きを感じさせる。写実味の加わった肉取り、一種の固さを持つ表情、広い肩に厚目の胸などから平安時代末から鎌倉初期の製作と推定される。
昭和59年3月 慈眼院 大阪府教育委員会
建第20号 府指定 有形文化財
日根神社本殿 一棟 昭和47年3月31日指定
日根神社の創建は明らかでないが元正天皇霊亀2年(716)に制定された和泉五社のうちに数えられ、また延喜式内社日根郡十座のうちに列している。現在の本殿は社伝によれば、天正年間兵火に焼失したものを豊臣秀頼が再建したものといわれる。
向拝、縁側廻りに修理の部分が認められるが細部の手法はよく桃山時代の特徴をあらわし斗?痴など見るべきものがある。社殿としては比較的大きな部類に属し堂々として雄大な風格を示している。
向拝、縁側廻りに修理の部分が認められるが細部の手法はよく桃山時代の特徴をあらわし斗?痴など見るべきものがある。社殿としては比較的大きな部類に属し堂々として雄大な風格を示している。
昭和59年3月 日根神社 大阪府教育委員会
摂社 比売神社
天照大御神(アマテラスオオミカミ)
須佐之男命(スサノオノミコト)
古くは『溝口大明神』とも称され、日根野村字溝口に鎮座していました。いつのころからか日根神社に遷され、かつては本殿と向かい合うようにして建てられており、『下の御前』と呼ばれていました。
国史跡日根荘遺跡
日根荘は鎌倉時代から戦国時代にかけて、泉佐野市域にあった京都の貴族九条家の荘園です。絵図や古文書等の資料が豊富に伝えられ当時の様子がよくわかること、当時を彷彿とさせる寺社、ため池、水路、農地等の景観が受け継がれている全国的にも貴重な荘園遺跡です。平成10年12月、国史跡日根荘遺跡として14ヵ所が指定され、大木地区では火走神社、円満寺、香積寺跡、蓮華寺、毘沙門堂に加えて、長福寺跡が指定されています。