改)甲斐 躑躅ケ崎館 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①正門

イメージ 2②武田神社

イメージ 3③天守台

イメージ 4④水濠

イメージ 5⑤水濠

イメージ 6⑥虎口

 

訪問日:2000年7月

 

所在地:山梨県甲府市

 

 武田信虎は明応7年(1498)甲斐武田氏17代・信縄の嫡男として生まれた(明応3年生まれとも)。当時信縄は父・信昌や弟の油川信恵や伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)らを敵に回し、甲斐国内は混乱していた。

 

 同年に発生した明応地震(南海トラフ巨大地震か)によりこれらとの和睦が成立したが、永正2年(1505)に信昌が、永正4年(1507)信縄が死去すると、幼い信虎(当時は信直)が家督を継ぐ。

 

 これを好機と見た信恵は弟の岩手縄美や栗原昌種らを味方につけ、勝山城に挙兵したが、信虎は永正5年(1508)勝山城を夜襲し、信恵一族や縄美・昌種を討ち取る大勝で武田宗家を統一した。

 

 永正7年(1510)都留郡の小山田信有に実妹を嫁がせて従属させたが、河内領の穴山信綱や中巨摩郡の大井信達が今川氏に帰属し、永正12年(1515)駿河守護・今川氏親の甲斐侵攻を受ける。

 

 永正14年(1517)今川氏と和睦した信虎は大井信達の娘を正室に迎え、永正15年(1518)守護所を石和館から甲府に移し、翌年から躑躅ケ崎館と詰城・要害山城の普請に着手した。

 

 大永元年(1521)大井夫人が要害山城で嫡男・太郎(武田信玄)を出産した。当時信虎には5歳の長男・竹松がいたが、2年後に夭折している。

 

 信虎は両上杉氏と同盟しており、この頃から後北条氏などとの抗争が本格化する。一方で中央ともつながりがあり、大永7年(1527)には将軍・足利義晴から上洛の要請を受けている。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
指定年月日 昭和13年5月30日
所在地 甲府市古府中町・大手3丁目・屋形3丁目
管理団体 甲府市

 

「武田氏館」は「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16年(1519)に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄、勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田氏の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約70年間にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。
 館は、一辺が約200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。
 この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。
   
平成元年3月   文化庁 山梨県教育委員会 甲府市教育委員会