①本殿
②若宮社・菅原社
③八阪社
④拝殿
⑤二の鳥居
⑥一の鳥居と椋の木
訪問日:2023年9月
所在地:大阪府岸和田市
戦国時代の和泉国の国人らは「和泉三十六士」を組織し、集団安全保障体制を構築した。その中には和泉五社の神主らがその神領を基盤に領主化したと思われる者もいる。
田代道徳(大鳥)子孫・有馬玄蕃頭出仕
田代氏は後三条源氏を称し、伊豆国田代郷を本貫とした。承久の乱の功により和泉国大鳥郷の地頭となり和泉に移住、次第に大鳥氏から主導権を奪った。豊臣氏の時代に摂津有馬氏に仕え、江戸時代は21万石の久留米藩士として明治に至る。おそらく有馬氏の前に天正13年(1585)紀州征伐で功を挙げた渡瀬繁詮に仕えたのではなかろうか。渡瀬の家老であった有馬豊氏は、渡瀬が文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連座して切腹すると、渡瀬の遠江横須賀城3万石や家臣団をそのまま引き継いでいる。
惣官美濃守(我孫子)子孫・断絶
美濃守は、泉穴師神社の神宮寺である穴師薬師寺のある我孫子を本拠としていたようだが、よくわからない。
成田伊豆守(信太)子孫・松平陸奥守出仕
松平陸奥守といえば仙台藩主伊達氏であろう。また仙台藩士には南宮領主の成田氏があり、元禄9年(1696)改易されたが、伊豆守の裔かどうかは確証が得られなかった。
積川四郎左衛門(積川)子孫・神職土着、庶子桑山氏出仕
積川(つがわ)姓の方は、現在大阪府岸和田市と河内長野市に30名ほどいらっしゃるようだ。桑山重晴は、天正13年(1585)紀州征伐の功により和歌山城主(3万石)となり、文禄4年(1595)和泉国日根郡谷川に1万石を加増された。谷川1万石を継いだ孫の桑山清晴は、慶長14年(1609)に改易されている。
日根野若狭守(日根野)子孫・大名廃絶、庶子旗本
大名となった日根野弘就は美濃の生まれで庶流と思われるが、天正4年(1576)弘就が和泉の日根野孫次郎に宛てた文書が伝わっている。
以下、現地案内板より
国宝 積川神社御由緒略記
(位置 岸和田市積川町349番地)
祭神 生井神、栄井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神(共に井水、土地の守護神)
当神社は崇神天皇の御代に創立され前に牛滝川、後に深山川の相会する処で積川の称がある、延喜式内社で和泉五社に列し、勅願社として朝廷の崇敬も厚く優遇され、格式の高い神社として有名、2,500坪の広大な境内の奥に桧皮葺の御本殿(三間社流造)があり、慶長年間に豊臣秀頼が片桐且元に命じて大修理を加えられ現在に至る。その様式は桃山建築の粋を極め優雅広大、特に高欄の彫刻は鮮美、依って大正3年特別保護建造物に指定さる。
社宝として白河上皇御宸筆の扁額、社像は重文指定、その他淀君奉納の神輿、楠正儀寄進の石燈籠、古鏡、古文書多数ある。
奉納 1986年10月吉日 岡本義広
若宮社・菅原社
若宮社 葺不合命 武位起命
御祭神 菅原道真公
御利益 学問、習事の上達成就
菅原社は元々和泉国南郡積川村の氏神であったが、明治維新後、橋室村と合併して後は、積川村西方の氏神として永く信仰されてきた。
本来は積川神社の若宮としてあった御社《弘化3年(1846)上棟》に、明治40年、政府の命令で合祀されることになった時、元の御社《天徳2年(958)創建》が細い道を通れないため、御神体のみと鳥居、狛犬が村人達の手により現在の地に運ばれた。昭和32年、御本殿解体修理の際、部分修復されたが老朽化は進み、檜皮屋根を銅板として、解体前と同じ姿で、平成25年3月に、新しく再建された。
八阪社
御祭神 素戔嗚尊(牛頭天王)
御利益 病気平癒、健康安全
八阪社は元々和泉国南郡橋室村の氏神であった。明治維新後、積川村に合併されても、積川村東方の氏神として永く信仰されてきた。
元の御社は、寛政5年(1793)に屋根を葺替えたという記録が残るのみで、建築年は定かでない。以後、明治8年に桧皮で屋根を葺替え、明治40年に、政府の命令で積川神社に合祀されることになった時、御社、鳥居、狛犬共々、村人現在の地に運ばれた。
大正15年に銅板で葺替えられて以来、老朽化も進み危険となったので、平成25年3月に、解体前と同じ姿で新しく再建された。