河内 神妙椋樹山 大聖勝軍寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂②平和塔③地蔵堂④神妙椋樹⑤聖徳太子と四天王像⑥伝物部守屋墓

 

訪問日:2023年8月

 

所在地:大阪府八尾市

 

 日本への仏教公伝は、欽明天皇の時代(西暦538年や552年の説など)に、百済の聖明王の使者が仏像や仏典とともに仏教の功徳を讃えた上表文を献上したことによるという。

 

 渡来人勢力と連携する大臣・蘇我稲目(用明・推古・崇峻帝の外祖父)は仏教の受容に積極的で、神事(古神道)に携わる大連・物部尾輿や中臣鎌子(鎌足の5代祖)はこれに否定的であった。

 

 天皇は自身の帰依を見送り、稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可したが、直後に疫病が流行したため、尾輿・鎌子の奏上により、仏像の廃棄、寺の焼却を黙認した。

 

 欽明天皇31年(570)稲目が没して馬子が継ぎ、翌年には天皇が崩御して廃仏派の敏達天皇が即位した。没年は不詳だが尾輿も守屋に代替わりし、蘇我氏と物部氏の対立は次代へ持ち越された。

 

 敏達天皇13年(584)司馬達等の娘・善信尼(11歳)ら3名が出家し、日本人で初めての出家者となった。馬子は居宅の東に仏殿を作り大法会を催して3人の尼を招いた。

 

 しかし翌年には再び疫病が流行して馬子自身も罹患した。守屋や中臣勝海(鎌子の子か)は蘇我氏の仏教崇拝が原因とし、仏教禁止の勅を得て、仏殿を燃やし、善信尼らを捕らえ、衣を奪って鞭打ったという。

 

 一方、馬子は天皇に病の治療には仏法の力が必要と願い出て、個人的な崇拝を認めさせ、善信尼らの禁錮を解かせた。間もなく天皇が崩御し、稲目の外孫である用明天皇が即位した。

 

 用明天皇2年(587)天皇は天然痘と思われる死の床につくと仏法の信奉を望んだ。馬子は勅を奉ずるべきとして僧を連れて来させた。怒った守屋だったが我が身の危険を知り、河内に退いて兵を募る。

 

 天皇が崩御すると、馬子は炊屋姫(推古天皇)の勅を得て守屋が推す穴穂部皇子を討つ。そして泊瀬部皇子や厩戸皇子らを味方として守屋の館(東大阪市衣摺か)へ攻め入る。

 

 守屋は稲城を築いて頑強に抵抗するが、大木に登っていたところを射殺され、物部軍は敗れた。その所領の半分は守屋の妹を妻とする馬子のものとなった。

 

 仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の対立は両者の勢力争いの一環だろうが、古神道がどのような死生観をとっていたかわからないが、仏教の死生観が当時の天皇や豪族らにとって、神道では満たされない魅力あるものに映ったような気がする。

 

 

以下、現地案内板より

 

勝軍寺

 

 椋樹山大聖勝軍寺と称し 高野山真言宗に属し 叡福寺(太子町)に対して「下の太子」という

 聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり 四天王に祈願 その加護によりいくさに勝ったのでこも寺を建てたという

 明治21年(1888)の台風で本堂(地蔵堂)が倒壊し 昭和46年復興が計画 旧太子殿の背後に新太子殿が建った

 本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い 門前に守屋池

 付近には鏑矢塚 弓代塚 市民病院前には物部守屋大連墳がある

 

八尾市教育委員会

 

 

聖徳太子救命の椋 神妙椋樹苑

 

「日本書紀」太子伝等に佛教伝来時崇佛の蘇我馬子 敬神の物部守屋が激突 守屋は八尾に「稲城」を築き その兵力強大 崇佛軍三度敗退す 太子 守屋の大軍に囲まれ絶体絶命の時椋の大木真二つに割れ太子を包み九死に一生を得て太子最後に四天王の加護を祈り守屋を倒す

 

 厩戸の皇子 聖徳太子16才の時 御誓願

神妙椋樹慈母木 我身出生廣大恩 紹隆佛法今成就 日日影向不退轉

 

乱後四天王を祭る太子堂を創建し 救命椋樹のそばに 佛塔を造り 敵将守屋公の尊像と御自身16才像を安置敵味方の区別なく両軍の英霊を弔らい「和の心」を後世に伝う 推古天皇は椋樹と大聖聖徳法王の勝ち戦を讃え山号寺名を賜う

 

神妙椋樹山大聖勝軍寺