摂津 鴻池稲荷(山中総本家跡) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①鴻池稲荷神社②祠碑③西池・黒池④清酒発祥の地碑⑤明治12年鴻池村全図

 

訪問日:2023年8月

 

所在地:兵庫県伊丹市

 

 戦国武将・山中鹿介幸盛の長男にして鴻池財閥の始祖・鴻池直文(山中幸元)は、慶安3年(1651)81歳で死去、鴻池村の山中総本家と通称・新右衛門は7男の山中元英(1605-70)が継いだ。

 

 なお、長男・山中新兵衛清直は、慶長19年(1614)すでに分家し、小濱山中家を称して小浜(宝塚市)醸造業を営んだ。その後4代・山中良和は医者の道を進み、酒造業を廃業している。

 

 次男・山中善兵衛秀成と3男・又右衛門之政は、元和年間に父の大坂進出に前後して大坂に移った。鴻池家では、この2人と8男・正成(1608-93)の家を鴻池三家と称した。

 

 4男・荒牧治郎衛門政勝は元和7年(1621)荒牧村(伊丹市)に分家し、5男・山中与右衛門正代は寛永年間(1624-44)大坂に分家し、6男・黒田新太郎は出家して僧侶となった。

 

 そして8男・鴻池善右衛門正成は寛永2年(1625)九条島で海運業を始め、寛永10年(1633)大坂今橋に分家し、明暦2年(1656)には両替店を開き、寛文10年(1670)には幕府御用の両替商となった。

 

 善右衛門家は後に海運・酒造から手を引き、金融業と大名貸しで成長を続け、10代・鴻池善右衛門幸富は明治10年(1877)第十三国立銀行(後の鴻池銀行・三和銀行、現・三菱UFJ銀行)を開業した。

 

 鴻池村の山中総本家は、(幸元から)4代・山中新右衛門元武が、延宝3年(1675)尼崎藩より苗字帯刀・十人扶持を与えられ郷士となった。この時、鹿介相伝の家宝・備前兼光の太刀を藩主・青山幸実に献上している。

 

 その後、13代・山中新右衛門元良が文政12年(1829)嗣子を残さず没したため、分家の山中善五郎家(鴻池善右衛門の一門)から養嗣子として山中新右衛門元丘が14代目を継いだ。

 

 しかし、安政5年(1858)鴻池文書「元丘浮沈録」を最後に鴻池村山中総本家は突如断絶する。元丘の生没年や墓所・法号もわかっていない。

 

 鴻池稲荷の地は、慶長5年(1600)初代・幸元が自宅の庭に稲荷を勧請したと伝わる。大正15年(1926)鴻池合名会社が鴻池山中総本家の屋敷跡地を買い戻し、伏見稲荷を勧請して鎮座式を祭行した。

 

 

以下、現地案内板より

 

伊丹市指定文化財 鴻池稲荷祠碑  平成3年12月26日指定

 

 この児童公園は江戸時代の豪商として知られる鴻池家の発祥地とされています。
東大阪市には鴻池家が開いた鴻池新田の会所が残り、国の重要文化財に指定されています。
 鴻池家の由来を記したこの碑は、中国の古代貨幣「布貨」(ふか)の形をした砂岩製で、花崗岩製の亀趺(亀形の台石)の上に立てられています。上部の凸出部を篆額に見立て、右に「稲荷」、左に「祠碑」の文字を篆書で刻んでいます。本文は大坂の私塾懐徳堂の教授であった中井穂徳(履軒)の撰文と筆になります。制作年は碑文の内容から、天明4年(1784)から間もないころと考えられます。

 碑文の大意は次のとおりです。

 鴻池家は酒造によって財をなし、慶長5年(1600年)から200年も続いている。その初代は幸元で山中鹿之介(正しくは鹿介)の子孫であると言われている。鴻池家は、はじめて清酒諸白を製造し、江戸まで出荷した。近隣の池田・伊丹・灘・西宮などでは鴻池家にあやかって酒造業を起こした者が数百軒もあった。
 鴻池家の屋敷のうしろには大きな池があり、これを鴻池といった。これは村の名の由来となり、またその名前を大坂のの店の屋号として用いた。
 鴻池家が酒造業を始めた年、屋敷の裏に稲荷の祠を祀って家内安全を願った。幸元の子供らのうち大坂で分家した者は三家、そこからさらに九家が分かれた。大坂の鴻池家の冨は莫大になっている。
 宝暦13年(1763年)秋の台風で稲荷の祠が壊れた。20年後、当主たちが集まり、「先祖の遺徳を忘れてはいけない。祠を再建する費用はわずかであるが、一人だけが出せば、他の人は先祖の恩徳を忘れてしまう。皆で出し合おう」ということになった。天明4年に祠が復旧されたとき、それらの事情をすべて石に刻んで残そうということになった。幸元から数えて7代目の当主元長の子、元漸は自分(中井履軒)の弟子であったので、元漸の依頼によってこの銘文をつくった。

 

【本文翻刻】 (太字の部分は現在剝落しています。)

鴻池山中氏之富以醸興也慶長五年至今殆二百載而醸不廃焉其祖曰幸元蓋鹿之助幸盛氏之孫云肇造双白澄酒而大售其伝送関以東初也歩担次以馬駄其旁邑池田伊丹一帯及灘西宮等以醸著名者亡慮数百家矣皆倣慕而起者今南海之帆陸続東嚮而馳者莫不酒之載也宅後有大池曰鴻池是邑所以得名而浪華諸宗人又用為鋪号也始醸之歳舎後祀稲荷以鎮宅及業日興乃以為神乃福祐也益処祷祀幸元諸子分居浪華者三家厥初亦皆以醸興皆小宗也其支派又九家而僕隷起家者不与焉今夫浪華鴻池氏之富甲于天下亦能知敬宗無失礼也宝暦癸未之秋大風祠旁松折圧壊祠不改作者二十載於是諸宗人相与謀曰祖之徳弗忘也神之祐其可遺乎奉請新祠以綏後禄其費雖微一人承事其余為忘祖乎請醵金命工咸曰善天明甲辰祠成復旧観而有加焉石表石燈翼如也乃相与約曰後年祠有頽圯者亦必以斯従事母使大宗独任也又曰盍紀諸石乎今之大宗子名元長実為幸元七世孫其子元漸従余受業是歳仲秋余偶遊北山訪其居主人觴我于池上奉家牒而請焉余既甘其酒而嘉其語也遂叙而銘之

 忠武震世者其角嶽々聖賢富家者其業奕々天不絶善人後神豈苟降多福

 不然天下多富民孰如山中氏子孫縄々芬華赫々

浪華 中井積徳撰并書

 

平成20年8月 伊丹市教育委員会

 

 

清酒発祥の地・鴻池

 

 戦国時代の天正6年(1578年)、尼子氏の家臣山中鹿之介の長男、新六幸元が遠縁を頼ってここ鴻池村に住みつき、酒造りを始めました。最初は濁り酒を造っていましたが、慶長5年(1600年)に双白澄酒(清酒)の製法を初めて発見することができました。

 この清酒を江戸へ運んで販売し、次第に財を貯え、後に分家を大坂に出して、酒販売・海運業・金融業でも成功を収めました。これが豪商・鴻池家の始まりです。

 ここから北西約140mにある児童公園に建つ「鴻池稲荷祠碑」には、そうした鴻池家の歴史が詳しく記され、清酒発祥の地・鴻池の栄光を今に伝えています。