河内 檜尾山 観心寺② | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①建掛塔と国宝金堂②訶梨帝母天堂③開山堂④御影堂⑤山門⑥旧槙本院

 

訪問日:2023年8月

 

所在地:大阪府河内長野市

 

 源義経の同母兄・阿野全成の外孫・実直(藤原公佐の子)が外祖父の姓を称し、公家としての阿野家の祖となり、阿野廉子(新待賢門院)はその子孫である。

 

 廉子は、正安3年(1301)阿野公廉の娘として生まれ、元応元年(1319)西園寺禧子が後醍醐天皇の中宮に冊立された際、その中宮内侍として仕えた。
 
 やがて天皇の寵愛を受け、正中2年(1325)に恒良親王、嘉暦元年(1326)成良親王、嘉暦3年(1328)義良親王(後村上天皇)や祥子内親王、惟子内親王らを出産する。

 

 元弘2年(元徳4・1332)元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇に随行して隠岐島へ渡る。元弘3年(1333)天皇が帰京し、建武の新政を開始した直後に禧子が崩御する。
 
 珣子内親王(後伏見天皇の第1皇女)が中宮として入内するが、建武元年(1334)恒良親王が立太子すると、建武2年(1335)廉子は准三后となる。

 

 後醍醐天皇の第一皇子・護良親王と対立し、足利尊氏と結託して建武元年(1334)の護良親王の失脚、翌年の殺害に関与したとされる。

 

 新政瓦解後も、後醍醐天皇に随行して吉野に入り、延元4年(暦応2・1339)その崩御後は皇太后となり、正平14年(延文4・1359)後村上天皇の行在所となっていた観心寺で亡くなった。(59歳)

 

 観心寺は楠木氏の菩提寺で、境内には国宝の金堂の他、正成が三重塔の一重目だけを建てたところで湊川で討死したため中止されたという建掛塔や尊氏から返還された正成の首塚などがある。

 

 しかし、その首塚の五輪塔の辺りは、実は廉子の墓所であるとの有力な説があるらしい。

 

 

以下、現地案内板より

 

観心寺

 

 奈良時代に役小角が開き、弘法大師の弟子実恵が827年に創立したこの寺は、楠木正成幼年時代の学問所でもあり、南朝ゆかりの寺としても有名。広い境内には、国宝の金堂をはじめ後村上天皇の檜尾陵・楠公首塚・楠公建掛塔などがあり、また寺宝としては、国宝の如意輪観音座像をはじめとする重要文化財や、楠木家文書などの貴重な資料が多数所蔵されている。
 境内は、昭和9年国の史跡に指定された。
 
 
史跡観心寺境内
 観心寺子院 旧槇本院
 
 観心寺は、かつて「子院」(塔頭)と呼ばれる多くの寺院を境内に抱えており、このような子院は全盛期に60坊ほどあったことが絵図や古い文書などで確認でき、僧侶の居住する場所でもありました。
 この場所にあった槇本院は、観心寺の有力子院として江戸時代の河内名所図会や観心寺境内図に往時の姿が描かれています。現在は、主に本坊として機能を果たしています。
 表門と土塀に囲まれた旧槇本院の敷地には、持仏堂[寛永19年(1642)、大阪府指定文化財]、中門[寛永21年(1644)、大阪府指定文化財]、書院[正保4年(1647)、重要文化財]、庫裡[正保4年(1647)]などの文化財建造物をはじめ、江戸時代初期のものとみられる庭園もあります。