国鉄 神戸臨港線 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①灘のタカバシ②脇浜町1丁目の橋台③銘板④国道2号線を跨ぐ⑤線路⑥神戸港駅跡

 

訪問日:2023年8月 2022年9月(⑥)

 

所在地:神戸市灘区 中央区

 

 神戸臨港線は、明治40年(1907)東海道本線・灘聯絡所(現在のJR摩耶駅)ー小野浜荷扱所間3.22kmが、貨物専用線として開業したのが始まり。

 

 小野浜荷扱所は、翌年には(貨)小野浜駅と改称され、灘聯絡所は明治43年(1910)(貨)灘駅、さらに大正6年(1917)旅客専用の灘駅(現在地)開業とともに(貨)東灘駅に改称された。

 

 また、新港突堤にあった三井倉庫・澁澤倉庫・三菱倉庫といった物流倉庫に専用線や構内側線が敷設され、有蓋車(日本では平成24・2012年に全面廃止)が乗り入れていた。

 

 大正13年(1924)小野浜駅ー神戸港駅1.61kmが延伸開業し、新港第四突堤に神戸港駅(こうべみなとえき)開業。京都駅ー神戸港駅間で、日本郵船の欧州航路に接続するボート・トレインの運行が始まる。

 

 昭和3年(1928)神戸港駅ー湊川駅間が延伸開業され(貨)湊川駅開業。当初は神戸駅と同一駅扱いであった(昭和36・1961年独立)。川崎重工業などの専用線が接続し、三菱倉庫からの専用線もあった。

 

 昭和14年(1939)神戸港駅が(貨)小野浜駅に統合され廃止、神戸港駅(こうべこうえき)に改称される。しかし、ボート・トレインは第二次世界大戦勃発に伴って運行を休止、その後復活することはなかった。

 

 昭和42年(1967)神戸港駅で海上コンテナの取扱いが試験的に開始され、昭和47年(1972)神戸港駅ー西名古屋港駅間で、日本初の海上コンテナ専用の定期列車の運転を開始する。

 

 昭和42年には摩耶埠頭が竣工し、昭和47年には神戸製鋼所への専用線を拡張し、神戸港駅ー摩耶埠頭駅間が開業、貨物ホームにクレーンが設置され、第四突堤との間はトレーラーで継送された。 

 

 当時は車扱貨物(貨車1両を単位とする)からコンテナ輸送への移行やモータリゼーションの進展により、貨物取扱い量は減少していた。昭和47年(貨)東灘駅が操車場に変更される。

 

 昭和49年(1974)神戸港駅への旅客営業を正式に廃止。昭和53年(1978)国鉄は海上コンテナの取扱いを中止した。昭和56年(1981)には東灘操車場は信号場に変更され、神戸港駅との間が電化される。

 

 そして昭和60年(1985)神戸港駅ー湊川駅間と(貨)湊川駅が、昭和61年(1986)神戸港駅ー摩耶埠頭駅間と(貨)摩耶埠頭駅が廃止され、昭和62年(1987)の国鉄分割民営化を迎える。

 

 それでも東灘信号場ー神戸港駅間は生き残り、平成7年(1995)1月17日の阪神・淡路大震災による被害からも3月31日には復旧されたが、平成15年(2003)神戸臨港線と(貨)神戸港駅はついに廃止された。

 

 業務は新設された神戸貨物ターミナル駅(JR西日本鷹取駅に隣接)に移管された。また平成28年(2016)には東灘信号場の場所に旅客駅としてJR西日本摩耶駅が開業した。

 

 

以下、現地案内板より

 

臨港線

 

 近代において、船舶は最も優れた大量輸送機関で、港で陸揚げされた貨物を内陸へと運ぶには、鉄道が重要な役割を果たしていました。大規模な港では港湾施設の一部とも言える存在で、これが各地の港に敷設された「臨港鉄道」です。

 1868(慶応3)年に開港した神戸港は、大型汽船は沖泊まりで艀(はしけ)による荷揚げが行われていました。1907年(明治40年)にようやく東海道本線に貨物駅として灘駅(現在の灘駅より東側にありました)ができ、ここから分岐した小野浜駅で、貨物の取扱いを始めました。

 その後、神戸港の整備が進み、1922年(大正11年)には四本の突堤が完成し、小野浜駅からそれぞれに引込線が延長され、その後神戸港駅(現神戸震災復興記念公園)と改称し、市民の交通手段にもなりました。

 大正から昭和時代に最盛期を迎えましたが、時代は鉄道からトラック輸送へと移行し、神戸の近代化に大きく寄与した臨港線も、2003年(平成15年)にはすべて廃止されました。

 市道・臨港線は鉄道の廃止後、鉄道竣工から100年の歴史を感じつつ、誰もが健康づくりを楽しみながら、歩くことができる桜並木として生まれかわりました。

 

平成21年10月 神戸市

 

 

大陸連絡列車もくぐった?!

灘のタカバシ

 

明治7年、大阪~神戸間に鉄道が開通し、同40年、現在のJR灘駅の約300m東にあった旧灘駅から中央区の小野浜にかけて臨港線のレールが敷かれました。その時岩屋村(今のJR灘駅付近)と原田村(今の阪急王子公園駅南側一帯)とを結ぶ道筋に設けられた鉄道を跨ぐ橋として建設されました。「タカバシ」の名で親しまれ、近くの交差点名にもなっています。当時は赤レンガで作られ、震災前までは橋脚部分に一部その面影が残っていました。