摂津 金剛山 伊勢寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本堂・石造十三重塔②中門③鐘楼④伊勢廟堂・顕彰碑⑤和田惟政墓⑥山門

 

訪問日:2023年5月

 

所在地:大阪府高槻市

 

 藤原公任(966-1041)による「三十六歌仙」、鎌倉中期の「女房三十六歌仙」の一人である伊勢は、藤原北家真夏流・藤原継蔭(生没年不詳)の娘として生まれた。母、兄弟の記録はない。

 

 父は貞観13年(871)文章生となり、仁和元年(885)伊勢守に任ぜられ、翌年に従五位上に叙されるが、任地になかなか赴かなかったので召問を受けた。寛平3年(891)には大和守に転じた。

 

 おそらく父の伊勢守在任中に宇多天皇の中宮・藤原温子(872-907)に女房として仕え、「伊勢の御」「伊勢の御息所」などと呼ばれた。

 

 温子の弟である藤原仲平(875-945)や兄の藤原時平(871-909)、貞観16年(874)に父とともに臣籍降下した桓武平氏・平貞文(872?-923)との交際が伝わる。

 

 その後、宇多天皇(867-931)の寵愛を受け、皇子を産んだが早世したため、その生没年や名前も伝わっていない。温子は延喜7年(907)に薨去し、伊勢は哀悼の長歌を残している。

 

 さらに玉光宮の通称をもつ宇多天皇の第4皇子・敦慶親王(888-930)と交際し、延喜12年(912)頃、伊勢にとっては一人娘の中務(三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人)が生まれている。

 

 延長8年(930)敦慶親王が薨去、承平元年(931)宇多法皇が崩御した後、伊勢は摂津国嶋上郡古曽部に庵を結んで隠棲したといい、天慶元年(938)以後に死去した。

 

 資料により若干の誤差はあるが『古今和歌集』に22首、『後撰和歌集』65首、『拾遺和歌集』25首など、勅撰和歌集に女性歌人としては最多の176首ほどが入集している。

 

 また、家集『伊勢集』の冒頭部分は自伝性が強い物語風の叙述で、後の『和泉式部日記』(寛弘5年・1008頃)などの女流日記文学の先駆的作品となっている。

 

 ある日、宇多法皇が伊勢の家の女郎花(オミナエシ)を献上させた。これを聞いた元カレ・藤原仲平は、

  女郎花折りけむ枝のふしごとに過ぎにし君を思ひいでやせし

との歌を贈り、かつて寵愛を受けた法皇への想いを問うた。伊勢は

  をみなえし折りも折らずもいにしへをさらにかくべきものならなくに

と返し、昔のことを思い出すことなどさらさらないと応えている。

 

 中古三十六歌仙の一人・能因(橘永愷988-1050)は伊勢を敬慕し、自身の隠棲の地も古曽部として古曽部入道と称している。

 

 

以下、現地案内板より

 

伊勢寺(奥天神町一丁目)

 

 伊勢寺は、金剛山象王窟と号し、曹洞宗で聖観音菩薩を本尊とする。平安時代の女流歌人、伊勢の晩年の旧居が当寺の前身であるとも、天正年間に高山右近に焼き払われたともいう。現在みられる堂宇は、元和から寛永(1615~1643)の頃、僧宗永により建立され、このとき天台宗から曹洞宗に転じた。また伊勢廟堂を修築した際に地中から出土した銅鏡や古硯が、当寺の寺宝として伝えられている。

 伊勢廟堂は本堂の西にあり、傍らの古碑は慶安4(1651)年、高槻城主永井直清が建立した。碑文は儒学者林羅山による。直清はこの前年に能因法師を顕彰しており、能因が慕っていたという伊勢と当寺の寺名を結びつけて、伊勢を顕彰したものとみられる。これ以後古曽部一帯は、2人の平安歌人の能因・伊勢ゆかりの地として有名になった。

 境内には戦国時代の武将、和田惟政の墓地がある。惟政は、高槻城主であった元亀2(1571)年、白井河原(現茨木市)の合戦で池田勝正に討たれた。後の享保年中に高槻城を改修した際に墓石が発見され、当寺に移したものといわれている。

 

平成20年3月 高槻市教育委員会

 

難波潟 みじかき葦の ふしの間も 逢はで此の世を 過ぐしてよとや

伊勢 新古今和歌集巻十一

 

伊勢(877?~939?没)

平安時代中期の女流歌人で、宇多・醍醐・朱雀の三代にわたって活躍し、「古今和歌集」「新古今和歌集」などに抜群の地位を占め、和歌史上、小町と和泉式部の間に立つ。

 

伊勢顕彰碑

この石碑は、大きな亀の台石を用いた亀趺座形式である。「贔屓」といわれる亀は、古来中国の架空の動物で、重い石碑を支える役目を与えられ、力持ちの象徴とされる。これと同様な形式が、永井家の菩提寺である京都悲田院の直清の墓石にもみられる。