訪問日:2023年4月
所在地:千葉県成田市
子に恵まれなかった初代市川團十郎が父所縁の成田山新勝寺に子宝祈願をしたところ、元禄元年(1688)男児を授かったことから、その子は「不動の申し子」といわれることになる。
元禄8年(1695)に初代がこれに報謝して山村座で上演した『成田不動明王山』が大当たりして、大向うから「成田屋っ!」という掛け声がかかったのが、成田屋の屋号の始まりという。
しかし、元禄17年(1704)初代が市村座で『わたまち十二段』の上演中に、舞台上で役者の生島半六に刺殺されたことから、半六の師匠の生島新五郎の庇護の元、山村座で17歳の二代目が襲名した。
当時の彼らは代々被差別民の統括権を与えられていた長吏頭・弾左衛門の支配下にあり、その人気を背景に弾左衛門支配からの脱却を図って江戸町奉行に訴え、宝永5年(1708)独立を果たす。
二代目は小林新助が記録した訴訟の顛末を元に『勝扇子』を著し代々伝えたという。正徳3年(1713)山村座『花館愛護桜』にて初めて「助六」を務めた頃から徐々に人気が高まる。
なお「助六」は後の七代目市川團十郎が市川宗家のお家芸として天保3年(1832)に選定した「歌舞伎十八番」(おはこの語源の一つ)の一つで、その後も特に上演回数が多い人気演目となる。
正徳4年(1714)江島生島事件で新五郎は三宅島に流罪となり、山村座も廃座となった。新五郎は28年後の寛保2年(1742)に赦されて江戸に戻る(1733年三宅島で死去説も)が、翌年に73歳で死去した。
ただ二代目市川團十郎は軽い処分で済み、その後は江戸歌舞伎の第一人者となって、享保6年(1721)給金が年千両となり「千両役者」と呼ばれることになる。
初代の荒事と新五郎の和事のみならず、実事、濡事、やつし事まで幅広い芸域を持ち、初代が取り入れた独特の紅と墨を用いた化粧法である「隈取」の技法や様式を完成させた。
二代目と妻・さい(雅号・初代市川翠扇)との間に子はなかったようで、享保20年(1735)門弟の市川升五郎に三代目を譲り、自らは隠居して二代目市川海老蔵(父の初名)を襲名した。
しかし寛保元年(1741)大坂で『毛抜』を初演していた三代目が病に倒れ22歳で急死したため、後継者を失った54歳の二代目海老蔵はさらに67歳まで舞台に立ち続けた。
宝暦4年(1754)隠し子ともいわれる高弟・二代目松本幸四郎を養子として四代目市川團十郎を継がせた。宝暦8年(1758)71歳で死去した。
以下、現地案内板より
日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」
門前町「成田」
成田は、江戸庶民からの篤い信仰を受けた成田山新勝寺や宗吾霊堂の門前町として発展しました。その背景には、成田山新勝寺による江戸での秘仏公開の出開帳(布教活動)をはじめ、初代市川團十郎(屋号:成田屋)の深い帰依、成田不動尊(成田山新勝寺)や義民佐倉惣五郎(宗吾霊堂)にまつわる歌舞伎の大ヒットがあり、江戸での旅行ブームも相まって、多くの参詣客をもてなす門前町として栄えました。
また、成田の夏の風物詩として300年以上の歴史を誇る伝統行事「成田祇園祭」(7月上旬の金・土・日)をはじめ、千葉県無形民俗文化財の「おどり花見」(4月3日)や義民佐倉惣五郎の祭礼「御待夜祭」などの成田の伝統文化・祭礼文化は脈々と受け継がれています。
成田山新勝寺
(光明堂・釈迦堂・三重塔・仁王門・額堂・木造不動明王及び二童子像・薬師堂・鐘楼・一切経堂及び輪転経蔵・清滝権現堂)
成田山新勝寺は、初代市川團十郎による歌舞伎「成田山分身不動」の大ヒットなどにより江戸庶民の篤い信仰を受けました。境内には、5つの国指定重要文化財をはじめとした江戸時代の寺院建築が今も数多く残っており、当時の成田山の隆盛をうかがわせる歴史的建造物です。
成田山門前の町並み
(大野屋旅館、三橋薬局店舗等、成田の商業用具)
成田山表参道は、大野屋旅館や三橋薬局などの歴史的建造物が残る江戸情緒あふれる町並みで、うなぎ料理や和菓子、銘酒、薬、竹雑貨などグルメやショッピングが楽しめます。
成田祇園祭
成田山新勝寺の本尊「不動明王」の本地仏である大日如来を「ご尊体」とした神輿が渡御し、合わせて各町から10台の山車や屋台が一斉に繰り出す門前町の祭礼です。
宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)
佐倉惣五郎の生涯を描いた歌舞伎のヒットとともに江戸庶民の信仰の対象となり、成田詣での帰路に立ち寄ることが定着しました。