下総 山崎城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①北西からの遠望②西からの遠望③南西からの遠望④飯篠長威斎之墓

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:千葉県香取市

 

 香取神宮からJR香取駅に向かう途中の側高神社の地に山崎城はあったといい、攻略するつもりだったのだが、参道入口を間違えてしまい、電車の時間を考慮して断念した。

 

 「そばたか神社」は利根川下流域に多く存在し、東北東に2kmほどのところの大倉の側高神社はそれらの本社とされるが、古来より当社の祭神は深秘とされている。

 

 山崎城は飯篠氏の居城とされる。日本武道の天真正伝香取神道流の創設者・飯篠長威斎家直は元中4年(1387)香取郡飯篠村の郷士・飯篠金兵衛の子として生まれた。

 

 千葉氏宗家18代・千葉胤宣に仕えたが、康正元年(1455)鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠の内紛(享徳の乱)で、一族で成氏方の馬加康胤に多古城を攻められ、千葉氏宗家は滅びた。

 

 仕官の道を捨て山崎に移った家直は、武神である経津主神を祀る香取神宮の奥宮近くの梅木山に籠り、剣の奥義を極め、「兵法とは平和の法」との悟りを得たという。

 

 経津主神の啓示を受けた家直は「天真正伝香取神道流」を創始し、これまで「型」のなかった武術に、くさり鎌・棒術・薙刀・槍・小太刀・二刀流など百般に亘る武道の原型を体系化した。

 

 武術を心身鍛錬の術として、武士から庶民まで広く教えたとされている。晩年は多古の生家近くに如意山地福寺を創建し、長享2年(1488)102歳で死去したという。

 

 

以下、現地案内板より

 

千葉県指定史跡

天真正伝神道流始祖飯篠長威斎墓

昭和18年2月19日指定

 

 天真正伝香取神道流(香取神道流)は、室町時代に形成され、以来、中条流・影久流・鹿島神道流などが誕生し、わが国最古の権威ある流儀として知られている。始祖である飯篠長威斎家直は、旧飯笹村(現、香取郡多古町飯篠)に生まれ、後に、旧丁子村山崎(現、香取市)に住み、香取神宮境内の梅木山不断所で、剣法の奥義を極めたと伝えられている。

 一時、将軍足利義政に仕えたが、帰隠し、長享2年(1488年)4月15日没した。

 墓碑は緑泥片岩であり、上部を欠き、高さ91cm、幅49.5cmで、「飯篠伊賀守長威大覚位」の陰刻がある。

 

昭和58年2月1日 千葉県教育委員会 香取市教育委員会