陸奥 湯長谷陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①館址碑②陣屋西側③南西水濠④南西水濠⑤湯長谷藩時代と現代⑥陣屋配置図

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:福島県いわき市

 

 湯長谷藩は、寛文10年(1670)磐城平藩主・内藤忠興の3男である遠山政亮が1万石を分与され湯本藩を立藩、延宝4年(1676)に居所を湯長谷に移したのが始まりである。

 

 延宝8年(1680)政亮は増上寺における徳川家綱の七十七日法要において、同族の鳥羽藩主・内藤忠勝が、宮津藩主・永井尚長を刺殺した事件の際に忠勝を拘束した功により2千石を加増された。

 

 貞享4年(1687)には大坂定番となり、河内に3千石を加増されて計1万5千石となったが、元禄6年(1693)在任中に69歳で死去、養嗣子・遠山政徳(上総苅谷藩主・堀直景の孫)が2代藩主となった。

 

 政徳も元禄16年(1703)嗣子なく30歳で死去、陸奥窪田藩主・土方雄次の孫で、内藤忠興の曾孫でもある政貞が家督を継ぎ、内藤姓に復した。享保7年(1722)38歳で死去した。

 

 4代藩主・内藤政醇は政貞の長男として正徳元年(1711)に生まれた。母は陸奥梁川藩主・松平義昌の養女だが、後に従一位内大臣となった櫛笥隆慶(隆賀1652-1733)の実娘・榮姫だという。

 

 事実であれば中御門天皇(在位1709-35、父は東山天皇、母が隆慶の娘・櫛笥賀子)の従弟ということになる。享保7年(1722)政醇は父の死により4代藩主となる。

 

 忠孝・倹約・扶助を旨とする藩法を定めた。興行収入2シリーズ計27億円を記録した映画の主人公として知られるが、寛保元年(1741)参勤交代からの帰国直後に31歳で死去している。

 

 本藩の磐城平藩・内藤氏(7万石)は延享4年(1747)日向延岡に転封となったが、湯長谷藩・内藤氏は養子による継承が多いものの、幕末まで存続した。

 

 安政3年(1856)商人・片寄平蔵が藩内の白水村で石炭層を発見、翌年から採掘が始まり、文久3年(1863)には2万6千俵を掘り出した。明治以降は常磐炭田として発展する。

 

 第二次世界大戦後、炭鉱が斜陽化を迎えると、坑夫を悩ませていた温泉の湧出を利用するスパリゾートを建設して注目された。また茨城県日立市の鉱山機械修理工場は世界的電機メーカーとなった。

 

 

以下、現地案内板より

 

湯長谷陣屋

 

 湯長谷陣屋は湯長谷藩初代藩主の遠山政亮(まさすけ)が、延宝4年(1676)の御国入りの際に下湯長谷村に陣屋と家臣屋敷五町四方を築くことを許されて建設を始め、翌延宝5年に完成している。陣屋は戦国期の舘跡に築かれ、75間に80間の単郭式の敷地を高さ4.5尺の土塁と幅2間の堀に囲まれていた。現在は磐崎中学校となっているが、周囲に当時の堀跡が残っている。

 江戸時代の陣屋の様子は天保9年(1838)の「天保九年八月御巡見様御案内覚帳」によると「此段陣屋構二六七千坪程も御座候由候、家中居処之儀ハ陣屋廻りに御座候、陣屋下町家数三拾軒余ニ御座候」(現代語訳:陣屋構えは6、7000坪程もあると承っています。家臣の住宅は陣屋の廻りにあります。陣屋の下には町屋が30軒余りあります)とあり、陣屋周辺には家臣屋敷や町人屋敷、陣屋周縁には藩主の菩提寺である龍勝寺も置かれ、小規模ながら城下町としての体裁をとっていた。また、天保14年(1843)には藩校の致道館も開かれている。

 陣屋が置かれた下湯長谷村は藤原川と湯本川の間に位置し、石高は315石。さきの天保9年の「覚書」には、「此段年々四月中陣屋下町ニ而せり市相立申候」(現代語訳:毎年4月に陣屋下の町にて馬の競り市が開かれています)とあり、毎年4月に馬のせり市が開かれていることがわかる。