陸奥 泉陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①陣屋跡碑②泉神社③泉神社汲深館道場④泉西公園⑤移築表門⑥陣屋周辺

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:福島県いわき市

 

 本多忠籌は元文4年(1739)泉藩本多氏初代・本多忠如の長男として生まれた。母は肥前平戸藩主・松浦篤信の娘・吉子、宝暦4年(1754)父の隠居により家督を継ぐ。

 

 『漁村維持法』(1780)などを著した佐藤玄明窩に学び郷蔵を設置したり、平易で実践的な道徳教である石門心学の中沢道二に学び善教舎を開設し、堕胎を禁止するなどの教化に務めた。

 

 天明5年(1785)嫡子・忠雄(母は忠籌の従姉妹で正室の松浦誠信の娘・富子)を病気を理由に廃嫡し、庶長子・忠誠を世子とした。

 

 心学を通じて親交があった松平定信が29歳で老中首座に就任した天明7年(1787)に49歳で若年寄に任ぜられ、翌年に側用人、寛政2年(1790)老中格に任ぜられ、定信の寛政の改革に参与する。

 

 蝦夷地探検家・最上徳内(1754-1836)が著した『蝦夷草紙』の影響から蝦夷地を幕府直轄としてロシアの南下政策に対抗すべしと主張したが、定信はこれを容れなかった。

 

 寛政5年(1793)定信が失脚して松平信明が老中首座となる。忠籌は「寛政の遺老」の一人として定信の緊縮財政や規律強化政策を引き継いだ幕政を主導した。

 

 寛政10年(1798)60歳で老中格を辞任、寛政11年(1799)忠誠に家督を譲り隠居、文化9年(1812)74歳で死去した。

 

 なお幕府は寛政11年(1799)東蝦夷地を、文化4年(1807)西蝦夷地を幕府直轄とし、文化6年(1809)樺太の呼称を北蝦夷地と定めて東北諸藩に警備を命じた。

 

 

以下、現地案内板より

 

泉城跡の変遷

 

泉は岩城氏 鳥居氏 内藤氏の所領であった 寛永11年10月 磐城領主内藤政長の次男政晴が初代藩主となり2万石を領した 2代政親の寛文8年3月より泉館と城下町の建設が始められた 元禄15年7月 領主相互交代で板倉重同が上野国安中より移封し1万5千石を領した 2代勝清の時 再び領主相互交代で本多忠如が遠江国相良より泉に移封となった 2代忠籌の時 功績により5千石加増され合わせて2万石となった 以後あい続いて維新に及び明治4年7月廃藩置県となった

戦後は青年修養道場伋深館を改造し 昭和21年4月泉村立泉公民館が発足した 昭和25年12月 泉中学校の新築落成に伴い泉公民館は他に移転した 昭和37年3月 泉中学校 渡辺中学校の統合により移転 このあとに校舎を改造して昭和40年1月 泉小学校が入居した 昭和58年4月 新校舎落成に伴い現在地に移転した 昭和59年7月 南福祉事務所が開設されたが市の機能改革に伴い4年後に閉鎖された 平成3年4月 泉公民館が新築落成 続いて4月 いわきコンピュータカレッジが開校し現在に至っている

 

平成5年3月 泉地区地域振興協議会

 

 

赤玉本多

奥州泉藩主本多二代目本多忠籌侯は寛政2年(1790)4月、老中に就任。

持槍2本を許され、登城の際は行列の先頭に立て、持槍2本のうち1本の素槍には太陽をあらわす「朱天目」。俗に言う「赤玉本多」を槍の穂先に飾り、威風堂々と登城し、その赤玉は昇る朝日に映えて、美しく見事であったと語り伝えられています。

また、諸大名は「赤玉」を遠くに見たとき、忠籌侯に敬意を表して行列を道脇に寄せ、譲ったともいわれています。