常陸 松岡城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本丸櫓台②井戸跡③御殿跡④水濠⑤三の丸⑥土蔵

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県高萩市

 

 中山氏は武蔵国入間郡を本拠とする武蔵七党の一つで、後北条氏家臣だった中山信吉は小田原征伐後に徳川家康に召し抱えられ、慶長12年(1607)家康の11男・徳川頼房の附家老となった。

 

 慶長14年(1609)頼房の水戸25万石転封に伴い1万5千石に加増され、2代・中山信政は正保3年(1646)松岡城を与えられ、6代・中山信敏は宝永4年(1707)居館を太田に移した。

 

 10代・中山信敬は、水戸藩5代藩主・徳川宗翰の9男で、明和8年(1771)9代・中山政信の娘を娶り、8歳で水戸藩附家老・中山家2万5千石を相続し、享和3年(1803)居館を松岡に戻した。

 

 14代・中山信徴は、弘化3年(1846)12代・信守の4男として生まれた。文久元年(1861)兄の13代・信宝の早世により16歳で家督を相続した。

 

 文久3年(1862)上洛を命じられた主君の水戸藩主・徳川慶篤に供して上洛するも、前年の生麦事件の賠償を求めて英国など4ヵ国艦隊が横浜に入港し、上洛中の将軍に代わり関東守備のためすぐに江戸に戻る。

 

 慶応2年(1866)には朝廷の命令で上洛、老中・板倉勝静から水戸藩政を握る保守門閥派・諸生党の処罰を求める命令を受領して江戸に戻るが、国許の諸生党が従うはずもなかった。

 

 慶応4年(1868)1月、水戸藩が諸生党討伐の勅書を託された一方で、同月、信徴は明治新政府から松岡藩立藩の特旨を受けて独立大名となった。

 

 明治2年(1869)版籍奉還により藩知事、明治4年(1871)廃藩置県により免官となり、その後は日光東照宮宮司、氷川神社大宮司などを務める。

 

 明治17年(1884)長男・中山信実が男爵に叙爵される。大正6年(1917)信徴72歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

竜子山城(松岡城)址  所在地 高萩市下手綱雉子尾

 

 竜子山城は階段的連郭式の城郭であり、高萩市域の城館址の中では最大の規模を有するものである。応永の末(1420)ごろから高萩地方の地頭となった大塚氏が居城、慶長11年(1606)には出羽から国替えとなった戸沢政盛が現在の松岡小学校敷地の部分まで城地を拡張して山城を平山城とし、名も松岡城に改称した。戸沢氏の国替え後、城をあずけられた水戸藩家老中山氏は、文化元年(1804)から館の普請を行った。

 左図は文政2年(1819)の松岡城郭草之図である。最高地である本丸におかれた櫓台や折邪(おりひずみ)と呼ばれる土塁などに中世城郭の様式が残されており、山城の部分は大塚氏時代のものにさして手を加えたものではなかったように思われる。

 

 

土居(土塁)

(土居は、土塁と同義に使われます。)

 城郭や屋敷地の周囲に、防御のために築いた盛土のことを言います。

 平地の土居は、濠を掘った土を盛って作られ、部分的に石垣を用いる場合もあり、その石垣が上部にあるのを鉢巻土居、下部にあるものを腰巻土居といいます。しかし、一般には粘土質の土を混ぜてつきかためた敲土居でした。土居の傾斜は、敲土居で約45°ですが、山城で城山を削り残した土居はこれより急勾配のものが多く防御力がありました。

 松岡城(竜子山城)は、中世以来山城として使われ、所々に土居を配してありました。江戸時代はじめ戸沢政盛が城を改修して平山城とした時に、平城の部分に新しく濠や土居を築きました。現在残っているものは、その時作られたものを後世修復しながら使っていたものと考えられています。

 

 

中世の蔵(復原)

 

 幕府は、江戸時代初期に尾張、紀州、水戸の徳川御三家をつくり、藩主の補佐役として有能な家臣を附家老として任命した。その際、水戸藩の附家老に選ばれたのが中山家であった。

 中山家の蔵の建築年月は不明であるが、戦前は天皇・皇后の写真を安置する奉安所として使われていた。

 以前は松岡小学校敷地の北西側にあったが、平成22年の校舎改築に合わせて現在の場所に移設した。

 平成23年3月11日の東日本大震災で被災したため、平成25年11月に再建した。

 

高萩市教育委員会