陸奥 願成寺 白水阿弥陀堂 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①白水阿弥陀堂②白水阿弥陀堂③白水阿弥陀堂④浄土庭園⑤浄土庭園⑥浄土庭園のカキツバタ

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:福島県いわき市

 

 白水阿弥陀堂は藤原清衡(基衡とも)の娘・徳姫が、夫で岩城氏(海道平氏)の祖とされる平則道(1008?-没年不詳)の冥福を祈って永暦元年(1160)に建立したと伝わる。

 

 基衡(1105?-57)が造った毛越寺や、基衡夫人の観自在王院、藤原秀衡(1122?-87)の無量光院(いずれも岩手県平泉町)の影響を受けたという浄土式庭園が発掘復元されている。

 

 ただ則道は前九年の役(1051-62)で活躍したとされる人物で、実在したとしても清衡(1056-1128)より前の世代であり、永暦元年建立を事実とすると年代が合わない。

 

 徳姫は岩城成衡の妻とする説もある。成衡の父は則道の他、常陸大掾平忠衡や平繁衡説がある。清原真衡(?-1083)の養子となった清原成衡(海道小太郎)と同一人物ともいわれる。

 

 (清原)成衡の婚礼の際に真衡が一族の吉彦秀武と反目したことが後三年の役(1083-87)の発端で、真衡急死後の成衡の動向は不明だが、その後奥州藤原氏の娘(徳姫)を妻としたとは思えない。

 

 一方、忠衡を父とする説では、忠衡は藤原経清(清衡の父、1062前九年の役で斬首される)の婿で、源頼義に疑われて常陸から武蔵に逃れた。成衡はおじの清衡のもとにあった。

 

 その後、父の無実が明らかとなって許され、成衡は清衡の娘婿となって岩城に住み、永暦元年に51歳で亡くなったという。江戸時代の『寛政重修諸家譜』によるものだが、寺伝もこれに付合している。

 

 岩城氏の本拠「平」、観音堂の「白水」の地名は重ねると「泉」になり、合わせると「平泉」となる。徳姫が平泉に因んで中心部を「平」、郊外を「白水」と称したという説があるようだ。

 

 ただ「平」は平家の平でもあり、平泉の地名の初見が『吾妻鑑』の文治5年(1189)の項とあり、逆に平泉の地名が「平」と「白水」に由来する可能性もあるのではないだろうか。

 

 『寛政重修〜』をそのまま歴史的事実として信用することはできないが、清原成衡(海道小太郎)と岩城成衡は別人で、諱名が同じなので混同されたのではなかろうか。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡白水阿弥陀堂境域

 

史跡白水阿弥陀堂境域は、永暦元年(1160)建立したと伝えられる国宝の阿弥陀堂を中心に、池、中島を配し周囲の山々を借景とし、平安時代後期に流行した浄土庭園として、国指定史跡となり、その後、発掘確認調査等に基づき復元されています。

 

史跡指定 昭和41年9月12日