常陸 妙福山 明音院 佐竹寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①山門②本堂③眺望

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県常陸太田市

 

 佐竹義昭は享禄4年(1531)佐竹氏16代・佐竹義篤の次男として生まれた。母は常陸小田氏13代・小田成治の娘。異母兄に義友がいる。天文12年(1543)佐竹寺が兵火により焼失する。

 

 天文14年(1545)父の死去により義昭が17代当主となるが、義篤に従属していた15代・佐竹義舜の娘婿(義昭の義叔父)で水戸城主・江戸忠通(藤原秀郷裔那珂氏支流)が反抗する。

 

 天文15年(1546)本拠・太田城の裏鬼門(南西)の地に佐竹寺を再建する。正室に磐城大館城(飯野平城)主・岩城重隆(この人も義舜の娘婿)の娘・宮山玉芳を迎え、天文16年(1547)嫡子・義重が生まれる。

 

 同年、重隆に忠通との和平の執り成しを受けるも破談となる。天文19年(1550)には戸村で忠通に敗れるも、天文20年(1551)には降伏に追い込んだ。

 

 弘治3年(1557)北条氏康の要請に応じて下野に出陣し、壬生氏に追放されていた宇都宮広綱の宇都宮城復帰を支援し、後に娘・南呂院を嫁がせている。

 

 永禄元年(1558)常陸に侵攻した岩城重隆を破り、娘・宝寿院を重隆の養嗣子・岩城親隆(娘・久保姫との間に生まれた伊達晴宗の長子)の正室として和睦した。

 

 永禄3年(1560)小田氏15代・小田氏治らとともに下総結城城の結城晴朝を攻める。同年、越後の長尾景虎(上杉謙信)が急速に勢力を拡大する北条氏康に敵対する関東諸将の要請に応じて関東に出陣する。

 

 永禄4年(1561)景虎が小田原城を攻撃、義昭や氏治もこれに加わっていたが、小田原城陥落には至らず、景虎は越後に帰国した。永禄5年(1562)氏治が上杉輝虎から離反し、北条氏康に転じる。

 

 永禄6年(1563)義昭が上杉輝虎に従い常陸を離れた隙をつき、氏治が義昭後室の実家・府中城の大掾貞国を三村の戦いで破ると、義昭は実弟・大掾昌幹を大掾氏の家督に送り込む。

 

 永禄7年(1564)義昭らの要請を受け関東に出兵した輝虎とともに小田城を攻略、氏治は藤沢城に逃れた。義昭は小田城に一門の佐竹義廉を入れ、常陸統一は真近と思われた。

 

 永禄8年(1565)義昭は35歳で急死した。すでに永禄5年に嫡子・義重に家督を譲っており、体調の異変を自覚していた可能性もあるが、隠居の理由や死因は不明である。

 

 

以下、現地案内板より

 

佐竹寺

 

 佐竹寺は妙福山明音院と号する真言宗豊山派の寺院で、寛和元年(985)に花山天皇の勅願により元密上人が開山したと伝えられ、創建当時は現在地から西北西に約700m離れた鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していた。

 佐竹氏初代昌義は、治承元年(1177)に同寺に寺領として300貫の土地を寄進し、6代長義は衰えていた寺堂を佐竹氏の祈願所として再興するなど、佐竹氏の隆盛とともに寺運も栄えた。しかし、天文12年(1543)に兵火にかかって焼失してしまい、同15年に18代義昭によってこの地に再建された。

 明治39年(1906)に国宝(制度改正により現在は重要文化財指定)となった本堂は、茅葺屋根寄棟造で、主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、正面中央に唐破風をあげている。元禄時代に内部の柱を取り除くなどの大改造が行われたが、正面の火頭窓や柱、外陣の繋ぎ梁の海老虹梁や組物などの桃山建築の先駆としての様式を残している。

 古くから安産、厄除けの仏様として信仰され、坂東三十三観音霊場の第二十二番札所として巡礼が絶えない古刹である。