常陸 太田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①石碑②西山公園より本丸③西山公園からの眺望

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県常陸太田市

 

 佐竹隆義は元永元年(1118)佐竹氏初代・昌義の3男として生まれた。母は藤原清衡の娘、異母兄に常陸平氏(吉田大掾氏)を継いだ忠幹(義政・忠義)がいるが、隆義の子とする系図もある。

 

 隆義は、佐竹郷に隣接する太田郷の藤原通盛(藤原秀郷裔)の太田城を接収し、通盛は小野崎城を築いて小野崎氏を称した。隆義入城の日に鶴が舞い飛んだので「舞鶴城」と名付けたという。

 

 常陸平氏(吉田大掾氏)との濃密な姻戚関係にあった隆義は、これと同族である伊勢平氏の平清盛に誼を通じ、平治元年(1159)平治の乱の際には京都にあって清盛に与した。

 

 佐竹氏は奥常陸7郡の支配を固め、それ故に治承4年(1180)源頼朝が挙兵した際も隆義は源氏ではあったがこれに与せず、逆に清盛(または平宗盛)の奏請により従五位に叙任されたという。

 

 富士川の戦いで平氏を撃破した頼朝は、三浦義澄・千葉常胤・上総広常といった良文流平氏(かつて常陸平氏と対立した)らの進言に従い、佐竹氏征伐のため常陸国府に押し寄せた。

 

 この時も隆義は京都におり、広常は忠幹と隆義の嫡男・秀義に会見を申し入れ、これに応じた忠幹を殺害、秀義は金砂城に籠るが、弟の昌成(革島義季)が寝返り、落城して奥州に逃れた。

 

 それ以上の追撃は免れたが、頼朝に与した八田知家(常陸国新治郡八田を本拠とする)の台頭を許し、文治元年(1185)知家は常陸国守護に任ぜられることとなる。

 

 隆義はその後、常陸に戻ったと見られ、寿永2年(1183)10月、頼朝は朝廷からの上洛要請を、藤原秀衡(隆義の母方の従兄弟にあたる)と隆義に鎌倉を攻められる恐れがあることなどを理由に断っている。

 

 ただ、隆義は同年5月にすでに亡くなっており、家督は秀義が継いだ。秀義は文治5年(1189)奥州藤原氏征伐では頼朝に従い、功により御家人に列せられた。