常陸 西山荘/久昌寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①西山御殿②不老沢③御前田④久昌寺⑤蓮華院・久昌院墓所⑥義公廟

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県常陸太田市

 

 『水戸黄門』の助さんのモデルとされる佐々宗淳(介三郎)は、寛永17年(1640)佐々直尚と熊本藩士・大木兼能の娘との間に生まれた。兄4人、姉1人、弟2人がいたという。

 

 父は佐々成政の姉の孫で、はじめ熊本藩のち讃岐高松藩の生駒高俊に仕えたが、生駒騒動により改易となり、佐々一家も讃岐を立ち退くこととなり、介三郎はその途上の瀬戸内の一小島で生まれた。

 

 父が大和宇陀松山藩に仕え、少年期を宇陀で過ごし、承応3年(1654)15歳で京都妙心寺に入るが、その後密かに論語を読み儒学に傾倒、延宝元年(1673)還俗して江戸に出る。

 

 延宝2年(1674)徳川光圀に見出されて水戸藩に出仕、以降『大日本史』編纂に携わる彰考館史臣の中心人物として、特に以下の如く史料収集のため各地に派遣された。

 

延宝6年(1678)京都・奈良方面

延宝8年(1680)河内・奈良・高野山・熊野・那智・吉野方面(「高野山文書」調査)

天和元年(1681)京都・奈良・醍醐方面(「東大寺文書」調査)

天和3年(1683)須賀川(「相楽家結城文書」調査)

貞享2年(1685)九州・中国・北陸方面

貞享4年(1687)那須国造碑の調査(水戸藩領内で前年に発見されていた)

元禄4年(1691)那須国造碑の修復、史跡の保存整備を総指揮

元禄5年(1692)那須車塚(上侍塚・下侍塚古墳)の発掘調査

同年 神戸方面 (湊川楠公碑建立の監督と史料収集)

元禄6年(1693)京都・奈良方面

 

 実際の光圀自身は関東地方から出たことがないと言われているが、介三郎はまさに諸国を行脚していた。他にも光圀は大型船「快風丸」を建造し、蝦夷地探検をさせたりもしている。

 

 介三郎はこの間の元禄元年(1688)に任ぜられた史館総裁を元禄9年(1696)57歳で辞任、西山荘の隠居・光圀に近侍して不老沢に住んだが、元禄11年(1698)12歳年長の光圀に先立ち不老沢にて59歳で死去した。

 

 彰考館の同僚で16歳年少の安積澹泊(覚兵衛・格さんのモデル)は、宗淳の墓碑文に友人として「おおらかで正直」「細かいことにこだわらない」「よく酒を呑む」などと記している。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡・名勝

西山御殿

 

徳川光圀と西山御殿

History

 元禄3年(1690)、水戸德川家2代光圀は、かねてから江戸を離れて隠棲したいと考えていました。世子・綱條に家督を譲ると、常陸国久慈郡の西山に御殿の建設を命じました。その願いを遂げ、西山御殿が完成しました。

 この地に御殿を建てた理由は、水戸德川家墓所である瑞龍山や光圀の母・久の菩提をとむらう久昌寺に近く、また光圀が尊敬していた古代中国の賢人・伯夷と叔斉が隠棲した首陽山の別名が西山だったからと言われています。

 西山御殿で光圀は、後に『大日本史』と命名された歴史書の編纂に取り組みました。

 自然豊かで静かな西山での生活は、隠居後の光圀にとって理想の暮らしと言えました。

 

 

西山荘

 

水戸黄門漫遊記で親しまれている水戸第二代藩主徳川光圀卿(義公)が、元禄4年(1691年)5月から同13年12月6日この世を去るまで、約10年間隠居所にされた遺跡である。光圀卿はこの地、西山荘で大日本史の筆削をされるかたわら、あるときは敷居をへだてず、領民にも接し、いろいろな事業をすすめられた。

荘内には、光圀卿が、紀州から取り寄せた熊野杉をはじめ、老松古杉がうっそうと茂り庭内には薬用などの実用を兼ねた珍らしい草木が多い。付近の観月山のもみじや、山中の傘御殿の眺望などとあわせて、四季おりおり味わい深い趣がある。なお庭前の心字の池を中心に周囲の山々を、庭にとり入れ、春秋の眺めもかくべつである。

 

常陸太田市

 

 

不老沢跡

この地一帯は往時は不老沢と称し光圀公にお仕えした家臣の屋敷のあった処です

 大森典膳(西山にての後家老)

 佐々介三郎(格式小姓頭)

 剣持興兵衛(格式御納戸)

 鈴木宗興(御医者)

 朝比奈半治(格式小納戸)

明治初年に付近の水田が開拓されたために用水池になりました。

 

 

水戸黄門漫遊記でおなじみの「助さん」の住居跡

(常陸太田市新宿町不老沢)

 

 助さん(本名、佐々木介三郎宗淳)は延宝2年(1674)、35歳のとき、黄門さん(水戸藩2代藩主徳川光圀)に招かれ、彰考館の史臣となりました。全国各地を訪ね、貴重な古文書を収集して『大日本史』の編さんに力を尽くしました。

 元禄元年(1688)彰考館総裁に任命され、同9年7月、総裁をやめ、小姓頭として西山荘の黄門さんに仕えました。元禄11年6月初めに59歳で亡くなりました。

 この辺が助さんの住んでいた所で、この井戸(深さ4mほど)は、当時使用されたものです。助さんの墓は市内増井町の正宗寺にあります。

 

 

蓮華院お萬の方墓所

久昌院お久の方墓所

蓮華院夫人(徳川家康の側室、のちに養珠院と号す)の長子である長福丸(徳川家康10男徳川頼宣「紀州家祖」)が、慶長8年(1603)11月、水戸の城主に任ぜられますと、母蓮華院夫人は、水戸千波に本法寺(玉沢末)を創建します。

そして蓮華院夫人の次男鶴松(11男徳川頼房「水戸德川家祖」)が慶長14年(1609)、水戸藩主(数え年7才)になるや、母蓮華院夫人は、慶長19年((1614)、佐竹氏発生の地、祈願寺大幢山金乗院勝軍寺を改宗し、久慈郡太田村(若宮八幡社境内)に蓮華寺を創建します。

つまり家康の室蓮華院夫人は徳川御三家の二家、紀州徳川家と水戸德川家の跡取りを儲けた人となります。蓮華院夫人は承応2年(1653)8月22日74才にて没しますが、山梨県身延山久遠寺の心性院日遠上人に帰依し、当時の日蓮宗に多大の貢献をし、徳川幕府を内面から支えた人でもありました。

また、その姿を見ていたのが、頼房の嫁久昌院夫人でした。

ことに蓮華院夫人にとって、家臣三木夫妻を通じ、我が孫、頼重・光圀の二児を知り、それを我が子、頼宣・頼房と重ね、世に出さんと思われたでしょう。

蓮華院夫人の意思を光圀の生母久昌院夫人は、影ながら学び、それが光圀を育てる源にもなっていました。広大な久昌院建立の構想は祖母・母から得た智慧の大きさを物語っています。

久昌院夫人も大きな貢献をします。

蓮華院夫人が、寛永度における不受不施義から惹起された身池対論にて、池上本門寺の命脈が尽きんとする中、幕閣に働きかけ、それを救済する手立てを作ったのに対し、それに伴う影響から禅那院日忠を水戸に庇護しています。

また、元禄年度の不受不施義の寺院弾圧に対する寺院の擁護・身延山の外護と支援(身延山日脱の賜紫・智寂院日省の身延就位等)をした光圀の行動には、生母久昌院夫人の示唆が見えない形で見て取れるのです。

久昌院夫人は、寛文元年(1661)10月病に生じ11月14日、水戸藩小石川藩邸にて没します。