常陸 志筑城/志筑陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①移築陣屋門②陣屋門跡③主郭土塁④伊東甲子太郎顕彰碑⑤千手観音堂⑥石造五輪塔

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県かすみがうら市

 

 鈴木多聞は、天保8年(1837)志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の次男として志筑に生まれた。3歳年長の兄に伊東甲子太郎がいる。家老との諍いによる父の隠居後に借財が発覚、一家は家名断絶・領外追放となる。

 

 兄は水戸に遊学して水戸学を学び、父は高浜村(石岡市)で村塾を主宰し、その死後は16歳にして多聞が主宰するも閉鎖となり、後に志筑藩士・寺内増右衛門の養嗣子となるが素行不良のため離縁される。

 

 脱藩した多聞は江戸深川の伊東道場の婿養子となっていた兄のもとに身を寄せるが、安政7年(1860)桜田門外の変以降、浪人に対する詮議が厳しくなったことから常陸多賀郡に隠棲する。

 

 文久3年(1864)伊東道場に出入りしていた藤堂平助の仲介で、兄とともに京都に赴いて後に新選組に正式加盟する。鈴木三樹三郎と改名し、元治元年(1865)九番隊組長となる(後に降格)。

 

 慶応3年(1867)3月、兄や藤堂らとともに新選組を離脱して御陵衛士(高台寺党)を結成するが、11月、兄が新選組に暗殺され、その遺体収容時に新選組と乱闘となり、藤堂が戦死する(油小路事件)。

 

 戦場を切り抜けた三樹三郎は薩摩藩邸に保護され、慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)の指揮下で伏見奉行所の新選組と戦う。

 

 同月に結成された赤報隊二番隊隊長として東征軍の先鋒となって東海道を進軍するが、東山道を進軍する一番隊の相楽総三らの偽官軍事件に連座して一時投獄され、後に薩摩藩預かりとなる。

 

 その後は新政府軍の徴兵七番隊に加わり、6月には軍務局軍曹を拝命し、戊辰戦争における北越や会津戦線を戦い、明治2年(1869)弾正台(監察機関)少巡察となる。

 

 明治4年(1871)廃藩置県後は鈴木忠良と改名し、司法・警察関係に奉職、明治12年(1879)には山形県警察本署鶴岡警察署長として明治天皇の行幸の指揮を執る。

 

 明治18年(1885)退官して石岡で余生を送り、大正8年(1919)老衰により83歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

志筑城跡

茨城県指定史跡 昭和10年(1935)11月26日指定

 

 志筑城跡は、恋瀬川を望む半島状の台地上に所在しています。

 志筑城跡について、『新編常陸国誌』では「志筑城は茨城郡志筑郷にあり。下河辺政義始て築き、志筑城に住す。」と紹介しています。下河辺政義は、平安時代末期から鎌倉時代初期(12世紀後半から13世紀初頭)の武将で、源頼朝から地頭職に任じられ、常陸南部を治めていました。政義以降、その子孫は益戸姓を名乗り、代々志筑城を治めたと伝えられています。

 南北朝時代(1336~1392)、常陸国では佐竹氏や大掾氏を代表とする北朝方と、小田氏を代表とする南朝方に分かれて争われていました。この頃の志筑城主である益戸顕助や、その子国行は、小田氏の旗下で南朝方に属していました。国行は、府中城(石岡市)の大掾氏と戦いましたが、興国2年(1341)には小田治久が高師冬の謀略に陥り降参したことに伴い、敵の軍門に降りました。そしてその後、志筑城は廃城となりました。

 慶長6年(1601)、志筑地域は、徳川家康により、出羽国仙北郡(秋田県美郷町)から国替えを命じられた本堂重親の領するところとなりました。そして、正保2年(1645)から明治の廃藩置県まで、本堂家の陣屋が置かれました。

 明治26年(1893)には、この地に志筑尋常小学校が建てられ、平成23年に移転するまで利用されていました。

 

かすみがうら市教育委員会

 

伊東甲子太郎顕彰碑

■碑文の概要■

 伊東摂津(甲子太郎)は、常陸国志筑交代寄合本堂家家臣鈴木忠明の長男として生まれた。青年期には水戸で文武を学び、その後江戸へ出て伊東精一道場に入門し、北辰一刀流を極めた。

 徳川幕府1864(元治元)年、京都守護職松平容保配下の新選組隊長近藤勇の隊士募集に応じ、弟の三木三郎らと共に京都に向かい、入隊し参謀の要職に就いた。京都を拠点に多くの志士と交流し、三条実美ら公家とも交わった。

 孝明天皇が崩御すると御陵衛士を拝命し、摂津の名をいただき新選組を離脱した。高台寺月真院を拠点として、柳原大納言や美濃の志士水野弥太郎らと政策を議論していた。ある時、近藤勇らとの酒宴の帰り道、数人から要撃され本光寺の門前に倒れ、33歳の生涯を閉じた。変を聞き馳せ参じた藤堂平助らも討ち死にした。三木三郎らは、明治元年3月甲子太郎ら同志4志の遺体を泉涌寺塔頭戒光寺に改葬した。

 大正7年11月従五位を受け、昭和4年4月靖国神社へ合祀された。これを機に地元有志が伊東摂津顕彰会を立ち上げ、顕彰碑建立計画がたてられた。

 東京帝国大学名誉教授市村瓚次郎が志筑城を訪れ、下河辺政義の居館として造られ、政義は源頼朝に仕え功績を残し、茨城南郡地頭職に任じられたこと、延元天授時代顕助・国行父子が足利軍と戦い亡くなった地であること、幕末には藤田東湖、藤森弘庵、佐久良東雄らが尊王論を繰り広げた地であることを確認された。

 顕彰会では、この志筑の尊王志士である伊東甲子太郎を顕彰し、この碑を以て後世に伝えていくこととする。

東京帝国大学名誉教授 塩谷温 撰文

■甲子太郎の経歴■

 1835(天保6)年常陸国志筑生。神道無念流、北辰一刀流を極める。水戸学を学び尊王論者。1864(元治元)年新選組入隊。参謀、文学師範を務める。孝明天皇の御陵衛士となる。佐幕派の近藤勇と袂を分かち、同志を連れ新選組を離脱。1867(慶応3)年11月新選組に暗殺される(油小路の変)。33歳。大正7年従五位。昭和4年靖国神社へ合祀される。

 墓は京都東山戒光寺にあり。

 

 

市指定文化財 千手観音堂 一棟

 所在地 かすみがうら市中志筑

 指定 昭和46年8月1日

 年代 元禄15年(1702)

 

 千手観音堂は、かつては朝日山慈眼院千手寺と称する真言宗の寺院で、宝持院(石岡市染谷)の末寺となっていました。この建物は、元禄15年(1702)に領主本堂氏を始め近郷近村の善男善女の寄進によって建てられました。落成式の法要は7日間にわたって行われ、賽銭は64両にのぼったと伝えられています。やがて千手寺は廃寺となりましたが、地元では現在も「観音堂」と呼ばれ親しまれています。

 また、旧千手寺の本尊 木造千手観音立像は鎌倉時代の作で、県指定文化財となっています。

 

かすみがうら市教育委員会

 

 

市指定文化財 石造五輪塔

 所在地 かすみがうら市中志筑1277

 指定 平成19年5月25日

 規模 総高 209cm、最大幅(火輪幅)78cm

 制作年 天文15年(1546)

 

 五輪塔は、仏教思想に基づき宇宙の生成要素とされる「空・風・火・水・地」の五輪で構成されるもので、かすみがうら市周辺では、筑波山系の山並みから産出される花崗岩で鎌倉時代以降盛んに造立されました。この五輪塔の地輪には、「松延」や「天文十五年」などの文字が刻まれており、戦国時代に制作された様子がわかります。

「松延」の文字は地名あるいは人名と考えられます。

 

かすみがうら市教育委員会