常陸 宍戸城/宍戸陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①移築陣屋門②陣屋門内側③土塁④土塁⑤末廣稲荷神社⑥城下図

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県笠間市

 

 水戸支藩の宍戸藩は、天和2年(1682)松平頼雄が異母兄の水戸藩主・徳川光圀から1万石を分与され、宍戸に陣屋を置いたことに始まる。藩主は江戸定府で参勤交代はしなかった。

 

 松平頼徳は、天保2年(1831)松平頼位の長男として生まれた。父は宍戸藩5代藩主・松平頼政の4男で、水戸藩一門家老格(3000石)・松平頼善の養女・絲を娶り、これを継いでいた。

 

 しかし6代・頼敬(頼位の兄)が早世し、天保10年(1839)には水戸本家からの7代・頼筠が重病となり、その養嗣子となって生家の家督を継ぎ、8代藩主となる。

 

 弘化3年(1846)頼徳は父から家督を譲られて16歳で9代藩主となり、父とともに本家の水戸藩主・徳川慶篤(15歳・当時慶篤の父である斉昭は強制隠居させられ藩政関与を禁じられていた)を補佐した。

 

 斉昭は嘉永2年(1849)藩政関与を許され、嘉永6年(1853)には老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に参画し、水戸学の立場から攘夷論を強硬に主張する。

 

 正弘死後、大老となった井伊直弼と対立した斉昭は安政6年(1859)永蟄居を命じられ、桜田門外の変直後の万延元年(1860)処分が解けぬまま水戸で急逝した。

 

 水戸藩内では保守派・諸生党と改革派・天狗党の対立だけが残り、元治元年(1864)藤田小四郎ら天狗党が幕府に横浜港鎖港を要求して筑波山に蜂起する(天狗党の乱)。

 

 幕府の命を受けた慶篤の名代として水戸藩士らを率いて平定に向かった頼徳だったが(大発勢)、兵の中に尊攘派が多数含まれていたことから水戸城を占拠していた諸生党に入城を阻まれ、戦闘状態に陥ってしまう。

 

 頼徳が那珂湊に後退すると、天狗党が大発勢に加勢する姿勢を示したため、これと同一視されてしまい、幕府追討軍主力が笠間に到着すると諸生党方として参戦し、討伐対象とされてしまう。

 

 幕府追討軍と諸生党に那珂湊を包囲され、幕府追討軍総括・田沼意尊から弁明の機会を与えるとして誘き出された34歳の頼徳は、その機会を与えられないまま切腹させられた。

 

 投降した頼徳の家臣ら43名も切腹・処刑され、頼徳の父・頼位も連座して官位剥奪、出羽新庄藩預かりとなり、宍戸藩は改易され、宍戸は幕府領となった。

 

  大名の切腹・改易は宝永6年(1709)江戸城内で大和柳本藩主・織田秀親を刺殺した加賀大聖寺藩主・前田利昌以来155年ぶりで、幕府による最後の改易であった。

 

 慶応4年(1868)明治新政府は宍戸藩の復旧を命じ、頼位が再相続して10代藩主となった。明治13年(1880)頼位の家督を継いだ頼徳の弟・頼安は明治17年(1884)子爵に叙せられた。

 

 

以下、現地案内板より

 

宍戸の歴史

 

 宍戸の歴史は、北山の石山神遺跡に始まりました。1万年以上前の先土器時代から縄文時代前期までの遺跡が発見され、長い期間、狩猟や採集を行っていた生活の場でした。その後、諏訪山古墳が築かれ、諏訪神社も祀られましたました。

 平安時代には、小鶴荘の領域となっていました。源頼朝の平氏打倒、鎌倉幕府の成立期に、八田知家は初代常陸国守護となり、小鶴荘の西部を手に入れ、4男宍戸家政をこの地に配しました。宍戸氏は鎌倉幕府の御家人として活躍し、家氏・時家の代には常陸国の守護を勤めました。

 鎌倉幕府滅亡・建武新政・南北朝時代に宍戸朝里と兼家父子が活躍しました。兼家は鎌倉府の奉公衆・御所奉行を勤め、宍戸氏は関東の8名家の一家となりました。

 しかし、戦国時代になると、常陸北部の佐竹氏の勢力が伸長し、宍戸氏もその配下となり、やがて宍戸の地を追われ海老ヶ島(筑西市)に移され、宍戸の地は佐竹氏の支配下となりました。

 関ヶ原の戦いの後、北出羽(秋田県)から秋田実季が宍戸藩5万石に転封となり、宍戸城を拡充し城下を整備し、龍穏院や高乾院などの寺院を建立しました。秋田氏は2代藩主俊季のとき、奥州三春(福島県三春町)に転封となり、宍戸地方は幕府領となりました。

 天和2年(1682)水戸藩主徳川光圀の末弟松平頼雄が宍戸藩1万石の領主となり、その後、5代藩主頼救が、宍戸城本丸跡に陣屋を構えました。頼救はまた、天明の大飢饉で荒廃した農村に北陸から農民を移住させ、復興に努めました。

 幕末、9代藩主頼徳は、水戸藩の天狗党の乱に水戸藩主徳川慶篤の名代として水戸に向かいましたが、天狗・諸生両派の対立は激しく、那珂湊戦争となり、その責任を取らされ、宍戸藩はとりつぶし、頼徳は辞世の歌を遺して切腹しました。

「思いきや 野田の案山子の竹の弓 引きもはなたで 朽果てんとは」

この争乱で宍戸藩の犠牲者は63名を超す悲劇となりました。

 明治を迎えて、新政府より宍戸藩の復活が認められ、頼徳の父頼位が再び藩主となりました。

 明治4年廃藩置県により、宍戸藩は宍戸県となり、さらに茨城県に統合され、明治の改革が進みました。宍戸城土塁跡には末広稲荷神社が祀られました。

 明治22年1月、小山・水戸間に水戸鉄道が開通し、大田町駅が設置されました(同年5月宍戸駅と改称)。同年4月、町村制施行により宍戸町が成立しました。

 翌年10月、明治天皇が、近衛師団の大演習統監のため宍戸駅から岩間室野の演習に馬で向かわれました。

 宍戸駅から、大田町と平町を結ぶ道路が建設され旧宍戸城跡に旧陣屋の市街地ができました。大田町・平町とともに、明治・大正・昭和と宍戸町の中心地として発展し、今日に至っています。

 

笠間市教育委員会

 

 

茨城県指定有形文化財

旧宍戸城表門 一棟

 指定日 昭和51年7月5日

 様式 木造長屋門形式、瓦葺き

 建立 江戸時代安政5年(1858)再建

 

 桁行7間半、梁間2間半、入母屋造のこの長屋門は、もと水戸藩の連枝宍戸松平家の陣屋表門であったが、明治初期の廃藩後、現在地に移築されたものである。

 宍戸藩は江戸時代初期に秋田氏が入封したが、正保2年(1645)に三春(福島県)に国替となり、その後藩領は、幕府・旗本の治めるところとなった。天和2年(1682)徳川光圀の弟頼雄をもって、松平宍戸藩初代とし、石高は1万石であった。代々藩主は、江戸詰めの定府制であり、陣屋の建築は天明7年(1787)とあるが、天保14年(1843)11月に焼失し、安政5年に再建された。

 門の構造形式は、向かって左手に居室を2部屋、右手に物置を配した長屋門形式である。正面の冠木には松平家の家紋が3個(桜材・黒漆塗り・金箔押し)飾られている。県内の大名屋敷の門の中では長屋門形式の唯一の遺構として、茨城県指定文化財となった。

 

笠間市教育委員会