常陸 府中城/府中陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①移築陣屋門②土塁③土塁④土塁⑤風間阿弥陀と歌碑⑥府中城跡

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県石岡市

 

 源頼朝から常陸平氏の惣領の地位を与えられ、常陸大掾に任ぜられた大掾資幹は馬場城(水戸城)を本拠とした。大掾氏は御家人・地頭ではあったが、守護の地位には就かず、国衙を勢力の基盤とした。

 

 鎌倉時代は国衙掌握を目指す常陸守護・八田氏(小田氏)との対立が続く。南北朝時代の大掾高幹は、はじめ小田治久とともに南朝に与するが、建武5年(延元3・1338)北朝に転じて治久を攻めた。

 

 応永23年(1416)大掾満幹は上杉禅秀に与し、馬場城を没収されて処刑される。大掾氏は府中を中心とする小勢力に転落し、戦国時代は守護・佐竹氏や藤原秀郷裔の水戸城主・江戸氏に押されていく。

 

 大掾氏最後の当主・大掾清幹は、天正元年(1573)大掾貞国の子として生まれ、天正5年(1577)父の死により5歳で家督を継ぎ、叔父・竹原義国の後見を受け、後に庶流の真壁氏の娘を正室とする。

 

 大掾氏は太田城主・佐竹義重を盟主とする「東方の衆」に与し、後北条氏派の小田氏治らと争いながらも、同じ「東方の衆」ながらも父祖の本拠であった水戸城の江戸重通との対立は続いていた。

 

 天正13年(1585)清幹は真壁氏らを、重通は宍戸氏(小田氏一族)らを味方にして、第一次府中合戦となり、翌年に佐竹氏と下総結城氏の仲介により和睦した。

 

 だが、天正16年(1588)戦いが再燃し、再び仲介に乗り出したはずの佐竹義重・義宣父子が江戸氏を支援する動きを見せたため、清幹は後北条氏に援軍を求めて佐竹氏から離脱した。

 

 しかし、清幹と真壁氏幹の連合軍は、府中城に迫った重通や佐竹父子、鹿島清秀(大掾氏一族)らの連合軍に敗れて降伏した(第二次府中合戦)ものの大掾氏・江戸氏の対立は続いたようだ。

 

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に大掾氏・江戸氏とも参陣できなかった。両者とも義宣に秀吉への執り成しを依頼したが、義宣はこれを黙殺し、8月常陸全域の安堵を受ける。

 

 12月、江戸氏の水戸城を攻略した佐竹氏のご隠居・義重はそのままの勢いで府中城も攻略、享年わずか18にして清幹は自害し、大掾氏は滅亡した。

 

 また天正19年(1591)2月には、常陸国南部に割拠する鹿島氏など大掾氏一族等の南方三十三館の国人ら(天正17年以降は下総千葉氏傘下にあって小田原不参陣だった)も佐竹氏により太田城に誘殺された。

 

 

以下、現地案内板より

 

市指定史跡府中城の土塁

 所在地 石岡市総社1丁目2番

 指定年月日 昭和53年8月23日

 

 府中城は、正平年間(1346〜1370)大掾詮国により築造されたといわれる。天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。

 落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領した。その後元禄13年(1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。

 城の規模は東西約500m、南北約400m、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができる。

 

昭和60年3月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会

 

 

県指定建造物 石岡の陣屋門

 所在地 石岡市総社1丁目420番

 指定 昭和43年9月26日

 

 この門は、江戸中期から幕末まで、およそ170年間にわたってこの地を治めた府中(現在の石岡市の一部)松平家の陣屋の表門である。

 府中松平家は、水戸徳川家の御連枝(分家)として定府(江戸定住)の大名だったため、領地には陣屋を置き、郡奉行以下総勢20余名に民政を担わせた。やがて府中の町は、穀物・肥料の集散地、また、醸造が盛んな町として発展し、幕末期には常陸南部で最大規模の都市となった。

 現存する門は、1828年(文政11)の建築で、鏡柱と控柱との間に切妻屋根をのせる「高麗門」の形式である。

 元来は土橋通り正面に建ち、明治維新後は石岡小学校の校門として用いられていたが、交通事情等によって昭和44年に石岡小学校敷地内へ移築され、さrに平成26年、市民の要望により現在地へ移された。

 

平成27年3月 石岡市教育委員会

 

 

風間阿弥陀

 市指定有形文化財

 昭和55年6月27日指定

 所在地 総社1-2-10

 

 高さ約130cm、五輪塔が壊れたような形をしている粘土製の像です。

 元来は、小栗城(現在の筑西市小栗)の守り本尊でした。

 応永30年(1423)、小栗城落城の折、小栗十勇家臣の風間次郎正興、八郎正国親子が三河に落ち延びる途中(現在のかすみがうら市下志筑)、幼い4代目三郎正三とともにこの阿弥陀を残していかれました。それが風間家で代々守り続けている阿弥陀です。

 風間家古文書によりますと、本尊は地下に埋め、地上に粘土で固めた像を置いたと言い伝えられています。

 像は、風間氏の転居とともに場所を変え、現在に至っています。