摂津 上谷上天満神社(上谷上農村歌舞伎舞台) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①上谷上農村歌舞伎舞台②社殿③農村歌舞伎舞台④舞台天井⑤床下楽屋出入口

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:神戸市北区

 

 明治22年(1889)町村制施行に伴い、山田13ヶ村は八部郡山田村となった。明治29年(1896)武庫郡に編入され、武庫郡山田村となった。13ヶ村には以下の通り16ヶ所もの農村歌舞伎舞台があった。

 

小河村  大歳神社 トタン葺に修復され、「現存①」

衝原村  大歳神社 昭和33年、34年(1958-59)頃に解体

東下村  七社神社 明治の終わりに解体

福地村  無動寺 大正9年(1920)頃まで本堂の向かいにあった。解体

中村   六條八幡神社(能舞台)元禄14年(1691)建造、「現存②」

坂本村  厳島神社 大正7、8年(1918-19)頃に長床に改造、「現存③」

西下村  天津彦根神社 大正初期に解体

原野村  天津彦根神社 人形芝居専用、「現存④」

     八坂神社 天保3年(1832)以前の建造、昭和37年(1962)解体

上谷上村 天満神社 文久3年(1863)建造、「現存⑤」

下谷上村 天彦根神社 天保11年(1840)再建、「現存⑥」

藍那村  八王子宮 明治初年建造、昭和40年(1965)台風により屋根が飛ばされ、本舞台のみ「現存⑦」

     厳島神社 明治20年(1887)建造、明治37年(1904)解体

     釈迦堂 明治26年(1893)釈迦堂を改造して建造、トタン葺に改修され「現存⑧」

小部村  大歳神社 昭和28年(1953)建替え、「現存⑨」

     杉尾神社 天保11年頃建造、昭和39年(1964)台風により倒壊、解体

与左衛門新田(無人村)

 

 この他、山田の北側に位置する北僧尾厳島神社の農村歌舞伎舞台は、安永6年(1777)の墨書が残り、現存最古の農村歌舞伎舞台である。これを含めると17ヶ所にあった。「現存⑩」

 

 昭和3年(1928)神戸有馬電気鉄道(現・神戸電鉄)有馬線開業、昭和7年(1932)山田村小部が鈴蘭台に改称、「関西の軽井沢」のキャッチフレーズで別荘地分譲が始まる。

 

 昭和22年(1947)山田村は神戸市兵庫区に編入される。昭和36年(1961)神戸市が鈴蘭台ニュータウンの開発に乗り出し、人口増加が始まる。昭和48年(1973)兵庫区から北区が分区された。

 

 

以下、現地案内板より

 

境内の歌碑

 

 境内には「学問の神様」菅原道真公の詠まれた歌碑があります。本殿階段右側に設置していますので、どうぞご鑑賞ください。

 菅原道真公(845〜903)は平安時代のはじめごろの学者であり、またすぐれた政治家として、太政大臣まで出世されました。その出世をねたんだ藤原時平等におとしいれられ、九州大宰府に左遷されました。

 道真公はその時の境遇、自宅の庭の梅の木との別れを惜しみ、歌を詠まれました。それがこの歌碑に刻まれている歌です。

 

離家三四月 落涙百千行 萬事皆如夢 時時仰彼蒼

(家を離れて3か月、いや4か月が過ぎたであろうか。もう百すじも千すじも涙を流した。昔の栄華も今の落魄も何もかも夢のように思え、あの青空を仰ぐばかりだ)

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

(毎年春になれば、東風にのって九州まで花の香を届けてくれよ。主人である私がいないからと言って、春を忘れてはならないぞ)

 

 道真公の死は、人々の同情と尊敬をあつめ、学問の神様『天神さん』として祀られ、永く広く世の人々にあがめられております。

*この歌碑は、元氏子総代 高田養治氏により寄贈建立され、氏子が大切に保存管理しております。

 

上谷上天満神社

 

 

県指定文化財 上谷上農村歌舞伎舞台

 指定年月日 昭和46年4月1日

 所有者・管理者 上谷上農村歌舞伎舞台保存会

 

 江戸末期から明治にかけて農村歌舞伎が全国的に流行し、山田町でも13ヶ村に14棟もあった。茅葺入母屋造平屋、正面11.07m、側面7.40mである。

 この舞台は文久3年(1863)に建てられたと推定され、割拝殿形式で建物の中央が参道になっている。舞台として用いる時には床を張り、花道は分解式で左横斜めにつけられる。床下の石壁造りの奈落は楽屋になっている。

 この舞台の特徴は上演のとき、床几4台をつないで廻り舞台にしていることである。

 

平成4年11月 兵庫県教育委員会

 

 

この舞台は 文久3年(1863)に建てられた割拝殿型式の農村歌舞伎舞台である 特色は奈落を設けながら 床几回し という上回し式回り舞台を有する点にある 明治の初めには ここで「宮討座」という座を組んで興行に出かけている

 県指定昭和46年4月1日(文・名生昭雄)

昭和54年上谷上農村舞台保存会 会長 高田養治