摂津 天彦根神社(下谷上農村歌舞伎舞台) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①社殿②農村歌舞伎舞台③農村歌舞伎舞台④農村歌舞伎舞台⑤参道

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:神戸市北区

 

 江戸時代には原則的に農民による芝居の鑑賞や上演は禁止されていた。しかし実際には農村舞台が作られ、全国に1000基以上が現存するが、その約10%が兵庫県内に存在するという。

 

 中でも現在の神戸市北区山田町にあたる山田13ヶ村には村の数を上回る16ヶ所の舞台があり、芸能の盛んな地域であった。六条八幡神社の能舞台を含めると9ヶ所の舞台が現存している。

 

 天保4年(1833)に始まる天保の大飢饉は米価・物価の高騰をもたらし、百姓一揆や都市への避難民流入による打ち壊しが頻発、大坂では天保8年(1837)大塩平八郎の乱が勃発する。

 

 天保10年(1839)老中首座となった水野忠邦は、大御所・徳川家斉が薨去した天保12年(1841)遠山景元(金四郎)や鳥居耀蔵らを登用して天保の改革に乗り出し、綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。

 

 天彦根神社境内の下谷上農村歌舞伎舞台は天保11年(1840)の再建で、起源はこれをさらに遡る。廻り舞台や反転して反り橋が現れる花道などの本格的な舞台装置が備わる。

 

 天保の改革の風俗取締りにより閉鎖された大坂の芝居小屋の浄瑠璃太夫や人形遣いらが山田に流れ込んだらしい。天保14年(1843)忠邦失脚後は特に盛況を極めたという。

 

 山田で上演された人形浄瑠璃は「山田文楽」と呼ばれ、淡路人形浄瑠璃発祥の地・三原(南あわじ市)と並び称されたが、継承者が途絶えて現在は上演不能となっている。

 

 

以下、現地案内板より

 

下谷上農村歌舞伎舞台

 

 この舞台は、江戸時代末の天保11年(1840)に建てられた村芝居の舞台である。

 江戸時代には、原則として農民が芝居を観たり演じたりすることは禁じられていたが、実際にはこのような歌舞伎舞台が各地に建てられ農民たちは歌舞伎を楽しんでいた。現存する舞台は、全国で約2千棟、兵庫県下で約170棟ばかりある。

 この舞台の特色は次のような点にあり、全国屈指の歌舞伎舞台として国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。

1 江戸時代末の建立で、舞台建築としては古いこと。

2 規模が雄大であること。(間口12m・奥行8m)

3 花道・太夫座・回り舞台・二重台・大迫り・ぶどう棚など多種の舞台機構を備えていること。

4 花道の一部が回転して、反り橋が出る特殊機構があること。(全国唯一)

5 神社境内の付属建造物である長床(宮座行事の建物)の利用舞台としての典型であること。

なお、この舞台は昭和52年(1977)1月に不審火で焼損したが、同54年(1979)9月に修復された。

 

神戸市教育委員会