①本堂・庫裏
②若王子神社
③若王子神社
④若王子神社
⑤鳥居
⑥鐘楼
訪問日:2023年4月
所在地:神戸市北区
真源は元禄3年(1689)山田與兵衛と清月妙意信女の子として八部郡山田村中村に生まれた。幼くして同村の真言宗清光寺の光谷に学び14歳で得度し、本然房と称した。
やがて高野山成蓮院に入った真源は、痰疾があり声はあまりよくなかったというが、『密宗声明系譜』などの著作を残し、南山進流声明(仏教音楽)の大成に貢献する。
一方で、故郷に帰省した際に福寺(無動寺)の荒廃ぶりを見てその再興を発願、20数年の歳月をかけて勧進し、宝暦2年(1752)その再建を見て、宝暦8年(1758)入寂した。
ところで、当時の山田村の役人として、總肝煎(役名)ー橘家ー山田忠七光重(眞源舎弟)とする記事があった。肝煎とは江戸時代の村の世話役で、庄屋や名主と同意である。
真源が生まれた山田家はその名の通り、山田村発祥の名家であったのだろう。そしてその本姓は橘だと解釈できそうである。
だとすると、福寺境内の若王子権現(現・若王子神社)を建立した橘長綱・橘光綱は山田長綱・光綱で、真源や光重の先祖だったのではないだろうか。
また山田村原野村の栗花落氏の祖も矢田部郡司・山田左衛門尉真勝という奈良時代の人物という。時代が離れ過ぎているが、関係があるのだろうか。
以下、現地案内板より
無動寺 真言宗
高野山の高僧、真源和尚が郷里の荒廃した寺院の再興を発願し、半生を捧げて村人と共に復興(宝暦2年・1752)したのが今の無動寺です。古い確実な記録はありませんが、仏像が平安期のものであり、鎮守社であった若王子神社に永仁5年(1297)の棟札があることなど、古くて大きな寺院であったことを示しています。
仏像5躯
いずれも平安末期の仏像として、国の重要文化財に指定されています。
木造大日如来坐像
巨大な丈六仏(立てば1丈6尺)で、如来でありながら宝冠や装飾品をつけ、独特の手印を結んで広大無辺の慈悲を表しています。顔は面長で奥行があり、腰はしぼられ、下半身は大きく作られています。彩色されない素地像や地方作が多くなるのはこの時代からで、この像もその一つと見られています。
木造釈迦如来坐像
量感があり、意力に満ち、前方を見つめる眼、頭部の盛り上がりと地髪との境がはっきりしないこと、螺髪が大きいことなどは平安初期の仏像に見られる特長ですが、彫法が浅く鋭い切味を消している点で後期の作と見られています。
木造阿弥陀如来坐像
極楽浄土の主として広く信仰されています。他の4像が檜材であるのに対し、この仏像は杉材で造られていて、時期もやや下がるのではないかと見られています。
木造十一面観音立像
頭上に十一面をいただく観音で、お顔は端正で気品があります。衣紋中央の渦紋、裳すそが足首より上にあるなど古い形式が見られます。
木造不動明王坐像
火焔を背に剣を持ち、眼を見開いたお姿は、大日如来の力を現したものです。内部は見事にくりぬかれており、中央仏師によって造られたと見られています。光背の火焔は江戸時代の作です。
神戸市教育委員会(平成26年)
国指定重要文化財
若王子神社本殿
指定日:大正3年(1914)4月17日
所在地:神戸市北区山田町福地字新池101
時代:室町時代前期(1408)
若王子神社は、明治初年までは無動寺(昔は福寺)の鎮守社で、若王子権現と呼ばれていましたが、神仏分離令で無動寺から分離しました。
社殿は、永仁5(1297)年、橘長綱が建立したと伝えられ、棟札により、室町初期の応永5(1408)年に橘光綱が新たに建築したものとわかります。
神社建築に多い三間社流造の社殿です。建築の特徴としては、屋根に竪板葺きを残し、側面(妻側)上にある破風板は、曲線をもった一枚板で作られています。この破風の出会っている所の棟木の飾板(懸魚)もなだらかな曲線で精巧に彫られています。覆屋内にあることから、保存状態も良く、室町時代の建設当初の姿がよく残され、建築様式を知るうえで貴重なものです。
神戸市