摂津 紫雲山 中山寺② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本堂と五重塔②本堂③本堂と大願塔④大師堂と五重塔⑤護摩堂⑥山門

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:兵庫県宝塚市

 

 中山寺が「安産の観音さま」として知られるようになったのは、多田行綱の妻の不信心を当寺の観音さまが「鐘の緒(=腹帯)」をもって戒め、その後行綱夫妻が仲睦まじくなったという逸話によるという。

 

 行綱は源満仲の長男・源頼光の裔である多田源氏嫡流(満仲から数えて8代目)だが、満仲の3男・源頼信の裔である源頼朝ら河内源氏の方が後に繁栄したため今はあまり知られていない。

 

 保元元年(1156)保元の乱では河内源氏の源為義・義朝父子が敵味方に分かれたように、行綱の父・多田頼盛(後白河天皇方)と頼憲(崇徳上皇方)兄弟も敵味方に分かれて戦っている。

 

 しかし、平治元年12月(1160年1月)の平治の乱では頼盛は義朝に与したようで、その後の消息は詳らかでなく、平清盛に与した庶流の源頼政(頼盛の祖父・明国の甥)が従三位に昇進し、公卿に列した。

 

 頼盛の跡を継いだ行綱は、父祖と同様にはじめ摂関家に近侍したが、その後後白河院の北面武士に加えられ、安元3年(1177)鹿ヶ谷の陰謀では反平家の大将を望まれるが、これを清盛に密告する。

 

 寿永2年(1183)木曾義仲の快進撃に呼応して挙兵、平家の都落ちに大きく貢献した。義仲が後白河院と対立すると院方に与し、同年の法住寺合戦ではその主力として戦った。

 

 元暦元年(1184)義仲敗死後は源頼朝に与し、同年の一ノ谷の戦いでも源義経とともに山方から平家軍を攻めた。それ以前に初代摂津国惣追捕使に任ぜられていたともいう。

 

 平家滅亡後の元暦2年(1185)頼朝により多田荘を没収され追放された。頼朝が清和源氏嫡流の本拠地を欲したからだとされる。同年、都落ちする義経を神崎川河口で迎え撃ったが突破されたという。

 

 その後の行綱の消息は不明となる。4男・多田基綱が承久3年(1221)承久の乱で後鳥羽院に与して討死した。その後の多田荘は多田源氏庶流などの多田院御家人により在地支配がなされた。

 

 密告者のイメージが強い行綱だが、密告の事実については異論もあり、一ノ谷の義経の活躍も実は行綱によるものだという説もある。名実とも清和源氏嫡流となった頼朝によりその実績は抹殺されたのかもしれない。

 

 中山寺はその後、豊臣秀吉が参拝して秀頼を授かり、明治天皇生母・中山一位局も安産を祈願した。今も伝わるご利益の由縁となるほどの行綱は当時かなり知られた存在であったのだろう。

 

 

以下、現地案内板より

 

中山寺の万霊塔について

 

 紀元前4世紀頃、釈迦入滅後、その遺体はマッラ族の廟所に祀られ、荼毘にふされた仏舎利(遺骨)はバラモンのドローナの調停によって、葬儀に参列した8つの国の人々に分けられた。

 また葬儀に遅参したモーリヤ族にも遺灰が与えられた。かれらはそれぞれの国に仏舎利を持ち帰り、ストゥーパ(仏塔)を建立した。ドローナ自身も、分舎利に用いた容器を安置するストゥーパを造った。いわゆる釈尊の十塔が出現したのである。

 マウリア王朝のアショカ王は8万4千の仏塔を建立したと伝えられ、7世紀半ばにインドを旅行した玄奘三蔵もその旅行記『大唐西域記』に、80余りのアショカ王塔を記録している。

 中部インドのサンチーの伽藍は釈尊の偉業を顕彰するために、アショカ王によって建立された仏教寺院で、紀元前3世紀から紀元2世紀のあいだに建てられた。なかでもサンチー大塔は半円球の墓廟であり、東南アジア・チベット・中国・朝鮮半島といったアジア全域で発展する仏塔の原型となった。

 とくにサンチー大塔の頂上に立てられた傘の形の傘蓋は、木造建築の中にも取り込まれて、今日、我々が見る三重塔・五重塔・十三塔・多宝塔・宝篋印塔・五輪塔などの起原と考えられている。

 中山寺の聖域に建立された万霊塔は、サンチー大塔を約6分の1に縮尺し、原塔の約3分の1の大きさとして復原したものである。

 その納める諸霊の遺徳を表し、施主等が供養の福田であるストゥーパ(卒塔婆)となることを祈念するものである。

 

昭和42年 10月吉日  大本山 中山寺