摂津 紫雲山 中山寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本堂

イメージ 2②大願堂

イメージ 3③奥の院

 

訪問日:2010年5月

 

所在地:兵庫県宝塚市

 

 聖徳太子建立の日本最初の観音霊場と伝えられ、極楽中心仲山寺と称された。本堂は慶長8年(1603)豊臣秀頼による再建である。

 

 安産祈願の霊場として源頼朝や豊臣秀吉も祈願したと伝わり、嘉永5年(1852)には孝明天皇の子を身籠った典侍・中山慶子が祈願して祐宮(明治天皇)を無事出産した。

 

 祐宮は5歳まで中山邸で育てられ、その後宮中の慶子の局に入り、万延元年(1860)親王宣下を受けて睦仁親王となった。しかし勅令により准后・九条夙子の実子とされた。

 

 文久3年(1863)慶子の同母弟で攘夷派公卿の侍従・中山忠光が主将となり天誅組の変を起こす。これに失敗した忠光は長州に逃れる。

 

 翌元治元年(1864)その長州藩が禁門の変を起こし御所を攻撃するが敗退し、長州藩を支持していた慶子の父・中山忠能は孝明天皇の怒りを買い、蟄居となった。同年、忠光が長州藩の恭順派によって暗殺される。

 

 慶応2年12月(1867年1月)孝明天皇の急死により翌慶応3年1月(1867年2月)睦仁親王が践祚して即位、忠能は赦され、慶子は病気のため辞していた典侍に再任された。

 

 忠能は同年の明治天皇による倒幕の密勅、王政復古の大号令に関わり、小御所会議では司会も務めた。明治3年(1870)東京遷都により忠能や慶子も東京に移住した。

 

 明治12年(1879)慶子の孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)が誕生すると、慶子は父とともにその養育掛を務める。明治21年(1809)忠能は80歳で死去、慶子は明治40年(1907)73歳で亡くなった。
 
 
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