大和 法相宗大本山 薬師寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝東塔

イメージ 2②金堂・西塔

イメージ 3③金堂

イメージ 4④金堂

イメージ 5⑤西塔

イメージ 6⑥玄奘塔

 

訪問日:1981年4月(①②③) 2013年8月(④⑤⑥)

 

所在地:奈良県奈良市

 

 薬師寺は天武天皇が鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願した飛鳥の薬師寺(本薬師寺)が平城遷都に伴い現在地に移転されてもので、東塔に関しては移築説もあったが現在では移転時に新築されたとの説が有力である。

 

 平城薬師寺の移転当時からの唯一の建築遺構である東塔は、平成30年(2018)完了予定で現在解体修理が行われている。現存する近世以前の仏塔としては①東寺五重塔②興福寺五重塔③醍醐寺五重塔に次ぐ4番目の高さで、一見六重に見えるが、構造的には裳階を伴う三重塔である。

 

 天平2年(730)に東塔やその他の伽藍が完成したと考えられ、天禄4年(973)の火災で講堂・僧坊・南大門が焼け、享禄元年(1528)の筒井順興(順慶の祖父)と柳本賢治の戦いで、金堂や西塔など東塔を除く回廊内の全ての堂宇が焼亡した。

 

 その後、慶長伏見地震(文禄5・1596)による損傷に伴う寛永21年(1644)からの正保修理、宝永4年(1707)の宝永地震による天明3年(1783)からの天明修理、嘉永7年(1854)安政奈良地震による安政3年(1856)からの修理などを経て、現在にその姿を伝えている。

 

 

以下、パンフレットより

 

薬師寺略縁起

 

 薬師寺は天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平常遷都(710)に伴ない現在地に移されたものです。
 当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍はわが国随一の荘美を誇りました。すなわち金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、なかでも裳階を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは、“龍宮造り”と呼ばれて、人々の目を奪いました。
 爾来1300年を経、この間、幾多の災害を受け、特に享禄元年(1528)の兵火では、東塔(国宝・白鳳時代)を除く諸堂が灰燼に帰しました。
 昭和42年、高田好胤管主により薬師寺白鳳伽藍の復興が発願されました。失われた堂塔の復興を大悲願とし、お写経勧進によって、金堂、西塔、中門、回廊、更には平成15年3月に大講堂が復興され、白鳳伽藍の輪奐美として甦りました。
 現代の日本人の浄らかな心の結晶が、堂塔伽藍のたたずまいとして未来の人々に継承されることを願い、薬師寺では皆様の更なるお写経のご結縁を願っております。
 
 
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