①諏訪山展望台
②神戸の街を見下ろす
③花隈城を望む
④花隈城
⑤諏訪神社
⑥金星台
訪問日:2011年2月(①~④) 2016年9月(⑤⑥)
所在地:神戸市中央区
有岡城の戦いで有岡城を脱出し、嫡男・村次の尼崎城に入った荒木村重は村次とともにさらに西へ奔って最後の砦・花隈城に逃げ込んだ。
これを追って池田恒興とその嫡男・元助は諏訪山に、次男・輝政は生田の森に、援軍の紀伊雑賀衆は大倉山に陣取って花隈城を包囲した。
天正8年(1580)3月、荒木軍が花隈城を出撃して生田の森の輝政隊に攻めかかり、同時に諏訪山の恒興・元助が花隈城へ攻撃を仕掛けて戦端が開かれる。
閏3月には織田信長と顕如の間で和睦が成立し、その条件に石山本願寺・尼崎城・花隈城の開城が含まれていたが、花隈城はその後も抵抗を続けていた。
しかし、7月になり花隈城は大手門周辺の大激戦の末開城、村重・村次はそれでも脱出して毛利氏の元へ亡命していった。
花隈城は廃城となり、恒興が村重の旧領を賜り、その遺材を利用して兵庫城を築城した。そして元助は有岡城に、尼崎城には輝政が入る。
本能寺の変以降、元助は父とともに羽柴秀吉に与して、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの戦功により父が美濃大垣城に移封されると元助は岐阜城主となった。
しかし、天正12年(1584)長久手の戦いで徳川家康に敗れて元助は父とともに討死、享年21とも26ともいわれるが、嫡男・由之が8歳であったことを考えると26歳のほうが自然か。
池田氏の家督は輝政が継ぎ後に姫路城を築く。由之は輝政に仕えて播磨利神城主となり2万2千石を与えられた。由之の子孫は岡山藩主池田氏の家老・天城池田氏として3万石を領して明治維新に至った。