兵庫県 阪急電鉄 西宮北口駅 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①模型②阪急ブレーブス③ダイアモンドクロス④案内板の写真⑤高畑町遺跡⑥現在の今津線

 

訪問日:2022年12月

 

所在地:兵庫県西宮市

 

 小林一三率いる箕面有馬電気軌道(梅田駅ー宝塚駅・箕面駅)は、大正4年(1915)十三から伊丹や門戸厄神を経て神戸に至るルート(十三線)の施工認可を受ける。

 

 しかし、大正6年(1917)箕有は塚口を経由する南側ルートへの変更を申請し、伊丹まで支線を敷設することを条件に認可が下りた。大正7年(1918)阪神急行電鉄(通称阪急)に社名変更する。

 

 大正9年(1920)十三駅ー神戸駅(上筒井)までの神戸線と塚口駅ー伊丹駅間の支線・伊丹線が開業、これと同時に西宮北口駅(当時は西宮市ではなく武庫郡瓦木村)も開業した。

 

 さらに大正10年(1921)には宝塚駅ー西宮北口駅までの西宝線が開業、大正15年(1926)今津駅まで延伸され(今津線に改称)、西宮北口駅構内で神戸線と平面直交(ダイアモンドクロス)となった。

 

 ところで、小林は日本初のプロ野球球団である日本運動協会が大正12年(1923)関東大震災の影響により解散すると、その引き取りを申し出て、翌大正13年(1924)に宝塚運動協会として再結成させた。

 

 同年には阪神電鉄が甲子園球場を開場させており、京阪も実業団チームを持ち、京阪グラウンド(寝屋川市)を完成させていた。小林は関西や東京の鉄道会社によるプロ野球リーグの構想を持っていた。

 

 しかし、後に続くプロ球団はできず、昭和金融恐慌など不況が続き、ライバルの大毎野球団(実業団)が解散、人気カードを失い、小林も昭和4年(1929)宝塚運動協会の解散を決断した。

 

 その後、5年の空白を経た昭和9年(1934)大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人軍)が結成され、翌昭和10年(1935)には阪神電鉄により大阪タイガース(現・阪神タイガース)が結成される。

 

 小林も球団設立を指示、昭和11年(1936)阪急軍(現・オリックスバファローズ)が設立された。昭和12年(1937)5ヶ月で完成させた阪急西宮球場が開場、宝塚から本拠地を移転した。

 

 時は移り、昭和63年(1988)阪急ブレーブスがオリックスに譲渡され、平成2年(1990)には本拠地を神戸に移転し、平成14年(2002)には西宮球場(阪急西宮スタジアム)も閉鎖された。

 

 たしか譲渡直前の頃だと思うが、民放のスポーツニュースのバイト(友人の代打なので数回だが)で、あの阪急の名監督やアナウンサーと並んで座り、スコアブックをつけていた思い出がある。

 

 また、これに先立つ昭和59年(1984)戦後の列車増発・長編成化によりダイア編成の支障となったため、今津線を西宮北口駅で北線と南線に分断した。これによりダイアモンドクロスが消滅している。

 

 

以下、現地案内板より

 

西宮北口ものがたり①

ダイヤモンドクロスからカリヨンへ

 阪急西宮北口駅は、「神戸本線(梅田~神戸(上筒井)間)」が営業を開始した1920年(大正9年)7月16日に開業しました。そして、1921年(大正10年)9月2日には西宮北口~宝塚間の「西宝線」が開通、神戸本線と西宮北口駅で結ばれました。その後、西宝線は1926年(大正15年)12月18日に今津まで1.9㎞延伸され、阪神電気鉄道と連絡する「今津線」となりました。

 今津線開業により、すでに開業していた神戸本線と西宮北口駅構内で平面交差することとなり、この平面軌道交差は「ダイヤモンドクロス」と呼ばれ、高速鉄道では全国唯一のものであったこともあり、鉄道ファンのみならず地域の方々にも西宮北口駅の名物として長年にわたり愛されました。

 しかしながら、人口の大都市集中に伴う輸送需要の拡大に伴い、輸送力増強・混雑緩和・安全対策が大きな課題となりました。そこで、神戸線においては、輸送力増強を図るとともに安全保安上のネックとなっていたダイヤモンドクロスの解消工事に取り組むこととなりました。

 この工事はまず、西宮北口駅の橋上駅舎の中央部を新設する工事からスタートし、1984年(昭和59年)3月25日にダイヤモンドクロスを撤去、今津線の分断が完了しました。その後、工事は着実に進み、神戸本線ホームの延伸により1985年(昭和60年)11月18日に特急車両の10両連結運転が開始され、輸送力増強に貢献することとなりました。

 そして、1987年(昭和62年)4月6日に橋上駅舎は竣工し、2階コンコース中央部には駅構内に光を呼び込む可動式のトップライトが新設されました。また、コンコースには立柱式のカリヨンも設置され、生まれ変わった西宮北口駅のシンボルとなっています。

 なお、西宮北口駅のかつてのシンボルであったダイヤモンドクロスの一部を、皆様が今お立ちのこの看板の足元に埋め込み保存しています。

 

西宮北口ものがたり②

65年の歴史を刻んだ多目的スタジアム~阪急西宮球場~

 1935年(昭和10年)10月、欧米視察の途中であった阪急電鉄創業者の小林一三は、プロ野球団結成と新球場の建設を電報で指令しました。この指令を受け、1936年(昭和11年)1月に「阪急ブレーブス」の前身となる「大阪阪急野球協会」が誕生し、1937年(昭和12年)5月には西宮球場が開場しました。

 西宮球場は、見やすさと収容力の増加を図るため、当時わが国では唯一の二層式スタンドが採用され、5万5千人の観客収容人員を誇る球場となりました。

 戦時中は、戦況の悪化による金属回収令で、スタンドを覆っていた大鉄傘が供出され、外野スタンド下にはグライダー製作工場が設けられました。しかし、戦後、西宮球場はいち早く復興に取り組み、終戦翌年にはプロ野球を開催し、終戦直後の荒廃した世情の中で人々に大きな希望を与えました。 

 カクテル照明や関西初となる人工芝、アストロビジョンなど当時の先端技術を積極的に導入した球場でもあり、野球の他にも、1950年(昭和25年)開催のアメリカ博覧会やアメリカンフットボールの試合など様々な催しが開催されました。

 しかし、1988年(昭和63年)10月、阪急電鉄は「プロ野球の振興を通じて、健全なスポーツ文化と健全な娯楽の育成に果たしてきた役割は一応終わった」と判断し、球団譲渡の申し入れを行ってきたオリエント・リースに球団を譲渡することで合意しました。これにより、約半世紀に及ぶ歴史と伝統の中で、パ・リーグ優勝10回、日本シリーズ3連覇という輝かしい偉業を残してきた阪急ブレーブスは、1989年(平成元年)のシーズンより「オリックスブレーブス」として再出発を図ることになりました。

 その後、西宮球場は多目的スタジアムとしての使命を終えたと判断し、2004年(平成16年)9月より解体工事に着手、阪急西宮ガーデンズ開発に引き継がれていくこととなりました。

 

西宮北口ものがたり③

高畑町遺跡 ~西宮市初の奈良時代の遺構が出土~

 高畑町遺跡は、阪急西宮北口駅南側の西宮市高畑町・高松町に所在し、弥生時代後期から中世を中心とする遺跡で、「西宮市埋蔵文化財遺跡分布地図及び地名表(西宮市文化財資料第45号)」に収載済みの「埋蔵文化財包蔵地」です。

 高畑町遺跡では、阪神・淡路大震災の復興事業にともなう発掘調査以降、4次にわたって調査が行われてきましたが、第5次となる調査を、西宮市教育委員会および兵庫県教育委員会の御指導のもと、(阪急西宮スタジアム跡地において、)2006年(平成18年)4月20日から同年11月10日にかけて実施しました。第5次調査は、調査範囲が9,250㎡と広範囲になることから、大きな期待がかかり、調査の結果、それぞれの時代からの遺構や遺物が数多く出土しました。

 特に奈良時代の遺構として大型井戸が発見され、その井戸跡から墨書の認められる木簡1点や和同開珎1点が発見されました。このように、奈良時代の遺構・遺物が発見されたことは、西宮市域において初となる成果であり、出土した遺物の内容等から、役所関連の遺構の存在が示唆されることとなりました。

 他にも、古墳時代前期の集落跡や良質な土器資料、古墳時代中期の竪穴式住居群跡や小区画水田跡が発見されました。また、平安時代の掘立柱建物跡や井戸跡、鎌倉時代~室町時代の集落跡や条理型水田跡も発見されています。

 以上のように、今回の埋蔵文化財発掘調査の成果として、奈良時代をはじめ各時代の集落のありかたを検証するための有力な資料を得ることができました。