摂津 塚口城(塚口寺内)② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①正玄寺②南口門跡③堀跡④東口門跡⑤清水口門跡⑥北口門跡

 

訪問日:2022年12月

 

所在地:兵庫県尼崎市

 

 塚口御坊は応永16年(1409)真宗興正派11世・性曇によって建立されたと伝わる。しかし、当時は興正派は存在せず、京都渋谷の佛光寺の別院として建てられたと思われる。

 

 性曇は応安元年(1368)真宗佛光寺派10世・唯了(真宗興正派10世としては源讃)の第3子として生まれた。祖父の7世・了源は両派の中興の祖とされ、祖母の9世・了明尼は史上初の女性法主である。

 

 性曇の頃が佛光寺派の最盛期のようで、高田専修寺とともに本願寺を上回る寺勢を誇っていたという。一説に末寺は3000ヶ所以上に上ったともいわれる。

 

 性曇の娘は名家の中御門宣輔(俊輔)に嫁ぎ、中御門明豊を産む。明豊は権大納言を務めて従一位に叙された。ちなみにその内孫に今川氏親に嫁いだ寿桂尼(今川義元らの母)がいる。

 

 しかし、性曇の4男の13世・光教の時代の応仁2年(1468)佛光寺は戦火に巻き込まれて諸堂を焼失し、光教は摂津平野への移転を余儀なくされた。

 

 一方、寛正6年(1465)比叡山により大谷本願寺を破却された本願寺蓮如は、文明3年(1471)越前国吉崎で布教活動を再開し、急速な発展を遂げる。

 

 文明13年(1481)光教の甥の14世・経豪(性曇の孫)は本願寺蓮如に帰依して本願寺に合流。山科に興正寺を創建、これに有力な末寺48坊のうち、塚口御坊を含む42坊が追随したという。

 

 光教と残った6坊は経豪の弟・経誉を知恩院から呼び戻し「14世」として経豪を歴代から外した。経豪は名を蓮教と改め、蓮如の孫・恵光尼を妻とした。

 

 その後、興正寺は本願寺と行動をともにしたが、明治9年(1876)浄土真宗本願寺派から独立し、真宗興正派を結成する。光教を歴代に加え、蓮教を14世としている。

 

 塚口御坊は、天正6年(1578)の荒木村重の謀叛の際に織田信長の「塚口城」として利用されて壊滅したが、その後「正玄寺」として再興され、現在も真宗興正派寺院として活動している。

 

 

以下、現地案内板より

 

正玄寺(塚口御坊跡)

 

 尼崎地方の一向一揆は、塚口御坊が中心であったとしるされています。この御坊は、応永16年(1409)に性曇上人が建てたと伝えています。性曇上人が尼崎に来たとき病気になり、1ヵ月余り滞在しました。このとき入門した祐信が発起人となって、上人の許しをえて堂舎を建てたのが塚口御坊となりました。そののち、細川勝元と山名持豊とが応仁2年(1468)に争ったとき、広根の最徳寺、多田(川西市)の光遍寺、箕輪(箕面市)の起光寺の3ヵ寺が塚口御坊を警護したともいわれています。塚口御坊が川辺郡・豊島郡・能勢郡の末寺や道場などで組織した一揆の中心になっていたことを物語っています。

 塚口御坊が方2町(約200m四方)余の境内のまわりに土居(土塁)を巡らし、さらに堀を巡らして戦国時代の城の構えを備えていました。そのために塚口城ともいわれています。ここが城として用いられたのは織田信長と荒木村重との戦いのときです。塚口御坊の壊滅後は、正玄寺がその跡を引き継いでいます。

 

尼崎市教育委員会