①柴島神社
②柴島神社
③城跡碑
訪問日:2009年7月(①②) 2012年3月(③)
所在地:大阪市東淀川区
三好長慶⑫
細川晴賢は典厩家・細川澄賢の子として生まれた。典厩家は宗家・京兆家8代・細川満元の3男・細川持賢を祖とし、摂津中島郡の室町幕府直轄領の代官を務めた。
祖父の典厩家3代・細川政賢は細川澄元に与して細川高国と戦い、永正8年(1511)船岡山合戦で討死した。典厩家は高国派の養子・細川尹賢(野州家、高国の従兄)が継いだ。
澄元派も実子・澄賢を擁立して典厩家は分裂、大永元年(1521)澄賢が死去すると、晴賢がこれを継ぎ、享禄4年(1531)大物崩れで高国は亡き澄元の子・細川晴元に討たれた。
それ以前に晴元に寝返っていた尹賢も同年、晴元に誅殺された。尹賢の実子が細川氏綱(高国の養子)と細川藤賢で、高国派は氏綱が京兆家の、藤賢が典厩家の家督を主張した。
晴元から氏綱に寝返った三好長慶は天文18年(1549)中嶋城(堀城)に兵を進め、晴賢の籠る柴島城に兵を出し、救援に来た三好政長も破り3月1日、柴島城を攻略する。
晴賢は柴島城を明け渡すが、同年9月には陸奥の葛西晴胤に祝儀を贈るなどの記録があり、また当時の花押を用いた奉加帳が讃岐に残っているが、その後の消息は不明である。
その後の柴島(くにじま)城については豊臣家滅亡後、稲葉紀通が中島藩を立藩しているが、詳細は不明。1回目の訪問で城跡碑を見つけられず、2度目の訪問でにようやく見つけた。