改)摂津 中嶋城(堀城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①十三公園

イメージ 2②十三公園

イメージ 3③十三公園

訪問日:2013年1月

所在地:大阪市淀川区

 

三好長慶⑪

 

 中嶋城(堀城)は史料によく登場し、現在の十三公園の場所にあったと推定されているが、大きく地形が変わっており、中嶋城・堀城が同地域の別城の可能性もある。

 

 築城は細川氏綱の実父・細川尹賢(典厩家)によるともいわれるが、詳細は不明。尹賢は細川高国を見限り細川晴元に寝返ったが、享禄4年(1531)の大物崩れの翌月、晴元の命で殺害された。

 

 天文17年(1548)10月、氏綱に寝返って十七箇所に進軍した三好長慶は、弟の十河一存に三好政勝が籠る榎並城を包囲を任せ、天文18年(1549)2月、堺で岳父・遊佐長教と会談する。

 

 一方、政勝の父・三好政長は丹波から猪名川を南下して摂津に入り、山下城で兵を整えて同年1月、池田城を攻撃、伊丹親興の支援を得て十七箇所へ向け進軍する。

 政長は2月下旬、神崎川をわたり、細川晴賢が守る柴島城に向け進軍する。これに対し長慶は中嶋城に兵を送り、ここを前線基地として政長軍を破り、3月1日には柴島城を攻略する。

 

 政長は伊丹城に退却し、長慶は榎並城への攻勢を強めるが、堅固で士気も高い榎並城は4月に入っても陥落する気配はなかった。

 

 中嶋城は後に氏綱の実弟・細川藤賢が城主となった。藤賢は13代将軍・足利義輝に仕えたが、永禄8年(1565)義輝が殺害されると松永久秀に属した。

 

 永禄11年(1568)足利義昭が15代将軍となるとこれに仕え、義昭の二条城が築かれる際には典厩家の屋敷庭にあった「藤戸石」が織田信長の指揮のもと二条城に移された。

 

 元亀4年(1573)信長討伐の兵を挙げた義昭を諌めたが聞き入れられずこれに従ったが敗れて開城した。藤賢は赦されて天正18年(1590)京都にて74歳で死去している。