①山下城と向山城
②曲輪
③愛宕神社
④主郭
⑤主郭
⑥城跡からの景色
訪問日:2011年5月
所在地:兵庫県川西市
三好長慶②
三好長慶(当初は利長・範長などと名乗る)は一族の政長と争いながらも摂津守護代として着実に勢力を伸ばし、天文9年(1540)19歳で丹波八上城主・波多野秀忠の娘を娶る。
天文10年(1541)8月、細川晴元は長慶や政長、秀忠、池田信正(政長の婿)に大物崩れで討死した細川高国の残党狩りをもくろみ、摂津一庫城(山下城)攻撃を命じた。
一庫城主は高国の妹婿で摂津源氏の塩川政年(細川両家記)とされるが、この時の城主はすでに息子の塩川国満(継室は伊丹親興の姉妹)であった可能性もある。
しかし、これに反発した政年の縁戚である伊丹城主・伊丹親興や三宅城主・三宅国村が9月29日、その不当性を将軍・足利義晴に直訴する。
さらに河内守護代・木沢長政にも救援を依頼して一庫城救援の体制を整えた。この動きに長慶は自軍の不利を悟り、一庫城の攻囲を解いて10月12日、越水城に撤退した。
なおその後、塩川国満や息子の長満は、永禄11年(1568)上洛した織田信長に従い、荒木村重に属した。天正6年(1578)村重の謀叛では信長に降り、有岡城攻めに加わった。
長満の娘・鈴は信長の嫡男・織田信忠の側室となった。天正8年(1580)に生まれた織田秀信(三法師)の母である徳寿院は鈴である可能性もある。
天正10年(1582)明智光秀の与力であった長満は本能寺の変の勃発後、羽柴秀吉に畿内の様子を注進し、山崎の戦いでは秀吉方の先鋒として戦った。
長満は光秀に与した能勢氏の所領も手に入れたが、天正14年(1586)長満の死後、後継者争いが起こり、秀吉により取り潰されたという。