改)摂津 越水城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①城跡碑

訪問日:2002年1月

所在地:兵庫県西宮市

 

三好長慶①

 京都方面から国道171号線を行き、武庫川を渡って西宮市に入って国道2号線に交差する手前で大きく左にカーブするところが越水の交差点である。

 

 その南には城ヶ堀町という交差点名も残っており、かなりの城域を誇っていたと思われる。近くには廣田神社も鎮座するが、現在城の遺構はない。
 
 三好長慶(千熊丸)は大永2年(1522)細川晴元の重臣・三好元長の嫡男として阿波芝生城に生まれた。天文3年(1534)生まれの織田信長より干支一回り年長である。

 

 母・慶春院の出自などは不明。弟に三好実休(1527?-62)、安宅冬康(1528?-64)、十河一存(1532-61)、野口冬長(?-1553)がいる。

 

 父・元長は細川晴元の重臣で、享禄4年(1531)晴元の仇敵・細川高国を滅ぼした「大物崩れ」の功労者であったが、その後の政策をめぐり、主君・晴元と対立する。

 

 元長の台頭を恐れた晴元や一族の三好政長、木沢長政らの策謀により、享禄5年(1532)元長は一向一揆に討たれ、11歳の千熊丸は母とともに本拠の阿波に逃れた。


 しかし、やがて晴元と一向一揆が対立し、享禄・天文の乱となるが、天文2年(1534)その和睦を当時12歳の千熊丸が斡旋したといわれている。

 

 同年、家臣の篠原氏が守る越水城を、元城主の瓦林氏残党と和睦に応じず蜂起した一部の一揆軍に奪われるが、千熊丸はすぐにこれを奪還した。

 

 翌天文3年(1534)には本願寺に与して晴元方の三好政長らと戦うが、河内守護代・木沢長政の仲介により許されて晴元へ帰参する。

 

 元服した千熊丸は三好孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。なお、彼は天文8年(1539)から天文22年(1553)まで、ここを居城としている。



以下、現地案内板より

越水城について

 目の前の小高い丘は観応2年(1351)足利尊氏と弟直義が戦った小清水の陣所跡で、瓦林正頼は永正13年(1516)ここに越水城を築城しました。いまの町名では城山・桜谷・満池谷・清水の4町にまたがり、その広さは南北約200m・東西約100mで小清水城あるいは越水といわれていました。ここは西国街道の要衝で、城にかかせぬ水にも恵まれた築城の適地でした。
 この城は、一説には天守閣もあり外城を備え、人びとを住まわせた西宮には、城下町のようなふんい気があり、「おおよそ目を驚かす風情」で、摂津では他に例がなかったようです。
 応仁の乱に始まる戦国時代初期、城主正頼は細川氏の内紛に高国方につき、西国より京にのぼる澄元を迎えうって敗れ、その上澄元に内通したとして切腹、死後澄元の家臣三好氏が入城しました。天文2年(1533)には瓦林と一向一揆が三好を攻めて城をうばい返し、瓦林の一族が城を守りますが、さらに攻防が繰り返されて、ついに畿内の覇者三好長慶の居城となり、彼は家臣松永久秀を京に止めて越水城で指揮をとりました。
 永禄9年(1566)時の城主四国阿波の篠原長房は、瓦林三河守に攻められ、一旦開城しますが、4日後に復活、9月には足利義親(のちの足利幕府14代将軍義栄)が入城しましたが、11年に織田信長の入洛により、越水城の戦略的価値が消えました。
 それから330年を経た明治29年(1896)12月、この城跡に大社尋常小学校の新校舎が建ち、中村地区から移転した3学級210名の児童が勉強を始めました。深い緑の木立につつまれた新しい学校は、大阪湾をへだてて摂津・河内・和泉や紀伊の山やまを望む素晴らしい環境に恵まれた学校でした。
 しかし、時代と共に発展する大社村(昭和8年4月西宮市に合併)の小学校としては狭くなり、大正7年(1918)11月現在地に移りました。最早越水城は遠い思い出ですが、戦国の世以来こんこんと清水が湧き、城や地名のもととなった3ヶ所の泉こそ越水城を語りつぐ証人として大切に保護したいものです。

以下省略    平成5年3月  西宮市教育委員会