①土塁と堀
②土塁と堀
訪問日:2005年10月
所在地:兵庫県尼崎市
三好長慶③
天文10年(1541)10月、一庫城の攻略を断念した三好長慶は越水城に帰還するが、河内守護代・木沢長政の軍がこれを追撃し、富松(とまつ)城を拠点に越水城に攻め寄せる。
富松城は越水城や伊丹城、大物城の中間地点にあり、両細川の乱では、永正16年(1519)越水城の合戦や、享禄3年(1530)の戦いでもその舞台となっている。
西宮に放火して回る木沢軍に対し、20歳の長慶は本拠の阿波に援軍を要求して反撃に転じ、包囲軍を撃退すると逆に富松城を攻略する。
一方で木沢は池田信正の原田城(豊中市)を攻め、さらに京都に進軍して10月11日、将軍・足利義晴に京都御警固役を申し出る。
しかし、管領の細川晴元は29日に北岩倉に、義晴は30日に慈照寺を経て近江坂本に逃れたため、逆賊となった木沢は河内へ引き上げた。
その後も富松城は長慶方にあったが、天文18年(1549)長慶と争った江口の戦いで、三好政長の軍が越水城と中島城の分断を狙って攻撃するも撃退されている。
また、抵抗を続ける伊丹親興の伊丹城攻撃のため、天文19年(1550)には長慶が富松城に入ったが、その後和議が成立している。
富松城の廃城時期は不明。現在は住宅地の一角に場違いな様子で土塁と堀の一部が残されている。管理が大変だろうが遺構を守っていってもらいたい。
以下、現地案内板より
富松城跡
富松城は戦国時代の城館で、長享2年(1488)の史料にその名前がみえます。永正4年(1507)から始まった室町幕府管領の細川氏の分裂抗争を発端とする戦乱が尼崎地域に及ぶと、西摂地域の重要拠点であった尼崎城・伊丹城・越水城(現西宮市)のほぼ中間地点に位置し戦略上の要地である富松城は、その戦乱の主要な舞台のひとつとなります。
目の前に残る小山と溝は、城の西側の守りとして築かれた土塁と堀の一部と考えられます。これまでの発掘調査では、土塁の内側(東側)に当る場所で大規模な堀が見つかっていることから、富松城は土塁と二重の堀を備え、東西150m以上、南北200m以上の規模の城館であったと推定されます。今も残る小高い土塁は、戦国時代の争乱を今に伝える大切な歴史的遺産です。
平成17年2月 尼崎市教育委員会