訪問日:2022年7月
所在地:兵庫県加古郡播磨町
阿閇神社の祭神は住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)と息長帯姫命(神功皇后)で、『住吉大社神代記』(国指定重要文化財)に記される賀胡郡阿閇津浜の中心地(本荘)であった。
阿閇神社の周辺には住吉神社が多数立地しており、阿閇荘の範囲は現在の加古郡播磨町全域と、加古川市別府町・平岡町の大部分を含むと考えられている。
明治22年(1889)の町村制施行で、八反田村など9村が平岡村、本庄村・古田村・宮西村など7村が阿閇村、別府村・西脇村・新野辺村が別府村(のち別府町)となった。
昭和25年(1950)平岡村など5町村が合併して加古川市が発足、翌年には別府町がこれに編入され、昭和37年(1962)阿閇村が町制施行・改称して播磨町となり現在に至る。
なお、現在の阿閇神社の氏子地域は播磨町本荘・古田・宮西と加古川市別府町西脇・平岡町八反田である。また、阿閇神社は西脇戎神社などとともに別府城(阿閇城)の比定地候補の一つである。
天正6年(1578)三木合戦で別府城主・加古政顕は三木城に入城し、織田方に与した別所重棟が守備していた。海から毛利軍に攻められるが、黒田孝高の援軍を得てこれを撃退したという。
別府の地名は当地が阿閇本荘の別符開拓村であることによるとされるので、阿閇神社にあったとすれば阿閇城とは呼ばれても別府城と呼ばれることはなかったと想像する。
加古川水系の別府川も流れており、別府城(阿閇城)は現在の加古川市別府町にあったと考えるが、阿閇神社が鎮座する本荘にも居館のようなものがあったのではないかとは思う。
以下、現地案内板より
阿閇神社 御由緒略記
御祭神 住吉大神
底筒男命 中筒男命 表筒男命 息長帯姫命
摂社 阿閇恵美寿神社
事代主神 三穂須須美命
「播磨風土記」に「阿閇の津」と記され昔から港とし発達し、舟人の往来の盛んな所で、「住吉大社神代記」(天平3年)に阿閇社とあることから、ここに海上守護神としての攝津の住吉大社から「子神」として御分霊を奉斎したのが当社である。
後に源季房朝臣(赤松氏の祖)が播磨国の守護として、加古郡大内村に移住された時この阿閇庄の住吉大明神を信仰され、国家安全を祈願された。のち、赤穂郡に白旗城を築き居城とされたが、赤松氏の祈願所として深く崇敬を受け、ために、社殿は赤松氏の居城に向って西向に建立されているという。
現在の本殿四社は元禄時代の建立である。
昭和61年5月吉日 阿閇神社 宮司 好崎忠臣
阿閇神社本殿(県指定文化財)
この本殿は、一の宮から四の宮に至る四社からなり、南北線上に西向きに近接して並立している。北端の一の宮には表筒男命、二の宮には中筒男命、三の宮には底筒男命、南端の四の宮には息長帯姫命をまつっている。
建立年代については、普請関係文書が残されており、それによれば、元禄14年(1701)5月に大阪・宮屋藤兵衛から「皇子造一間社仕様帳」を出させて工事に着手し、翌15年11月には、すべて作事は完成したらしい。
現在の本殿は、様式作法からも、そのときのものに相違なく、各四社は、一間社春日造りの同形・同規模からなり、いずれも正面の縁を廊橋で結ぶ形式をとっている。屋根は檜皮葺で、切妻の妻入正面に軒唐破風つきの庇を出し、棟には、千木堅男木を飾っている。
各四社とも、元禄造営後は、寛政12年(1800)の屋根替えをはじめとして幾度かの修理を経ており、柱間装置・縁まわりなどにその跡がみられるが、主要軸部には旧材が残されている。特に組物や蟇股・木鼻・手挟などの細部手法は江戸時代中期ごろの特色を良く表していて、保存もよい。
各部には、良質の材料を用い、工作も優秀である。この本殿は、江戸中期の造建ではあるが、正規の春日造り形式をよく伝え、特に、四社が軒を近接して並立する配置は他に類似例が少なく、神社建築史研究上注目される遺構である。
平成2年2月 播磨町教育委員会
阿閇恵美寿神社 由緒
当神社は、事代主神・三穂須須美命を奉斎し、蛭子命を合祀しています。
昔から海運が展け、漁業・農業の盛な土地で、里人は漁業隆昌の守護神として各地に蛭子神社を御祭りしていました。
近年、当地は臨海工業地帯として目覚ましい発展を遂げており、更に氏子地域諸々の産業・氏子住民の福徳円満家運隆昌を祈念し、こゝに出雲国美保神社より御分霊を戴き、昭和40年阿閇神社の玉垣内に新社殿を建立し奉斎致しました。
合祀神社
本荘 東所 蛭子神社
本荘 宮ノ東 蛭子神社
本荘 西浜 蛭子神社