播磨 別府城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①西脇戎神社

 

訪問日:2012年9月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 天正6年(1578)4月、別所氏の三木城救援のため毛利氏は宇喜多直家率いる7千兵を派遣し、これに雑賀衆の兵が加わり海から上陸して別府阿閉城に迫った。(阿閇城とも)

 

 城を守るのは別所氏の中で唯一織田方に留まった別所重棟の500兵で、織田方の大将・羽柴秀吉は援軍として小寺孝高(黒田官兵衛)の500兵を派遣し、直家らを撃退した。

 

 この勝利に乗じて秀吉は間もなく別所方の野口城を攻略する。しかし、陸上から吉川・小早川らの毛利軍が尼子勝久が守る上月城に攻め寄せ、秀吉らが救援に向かうが、同年6月、信長の命令により上月城を見捨てることになる。

 

 一方で孝高は小西行長とともに直家の調略に成功して味方につける。阿閉城での戦いで直家が孝高を評価したからか、ここで何らかの接触があったのかもしれない。

 

 負けじと毛利氏も織田方に調略の手を伸ばし、10月に荒木村重は信長に叛旗を翻し、有岡城に籠城する。この時点では織田と毛利の戦いはまさに一進一退であった。

 

 三木合戦の重要な戦局となった阿閉城だが、その場所がどこにあったのかは確認できていない。この西脇戎神社もその候補のひとつである。