備前 岡山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守

イメージ 2②天守

イメージ 3③天守

イメージ 4④旭川越しに天守

イメージ 5⑤後楽園から天守

イメージ 6⑥月見櫓

 

訪問日:1982年8月

 

所在地:岡山市北区(当時は政令指定都市ではなかった)

 

 岡山城は現在、鯱や軒丸瓦に金箔が施されて華やかになっているが、これは平成8年(1996)に築城400年記念事業として「金烏城」と呼ばれた天守造営当初の姿を再現したものらしい。

 

 備前・美作・播磨に君臨した浦上村宗が享禄4年(1531)大物崩れで細川高国と運命をともにすると、重臣の宇喜多能家は砥石城に隠居したが、同年(天文3年・1534とも)異母弟の浮田国定を支援する島村盛実により謀殺された。この時、能家の孫・直家は3歳(あるいは6歳)だったが、父とともに備後・鞆津に落ち延びた。

 

 浦上氏は村宗の長男・政宗が相続したが、弟の備前天神山城主・浦上宗景と対立する。直家は宗景に仕えて頭角を表すと、弘治2年(1556)砥石城にあった政宗方の国定を攻め滅ぼし、永禄2年(1559)には島村も謀反の嫌疑をかけて殺害し、祖父の仇を討つとともに砥石城を取り戻した。

 

 直家の勢いはこれで止まらず、同年には舅の中山信正をも謀反の嫌疑で殺害して所領を奪い、永禄4年(1561)には政宗方の松田元輝の家臣・税所元常を謀殺してその居城・龍口城を奪う。

 

 永禄9年(1566)備中松山城の三村家親を鉄砲で暗殺し、続く明善寺合戦で大勝、永禄11年(1568)和睦して姻戚関係にあった金川城の松田元輝・元賢(娘婿)父子を討つ。そしてついに永禄12年(1569)主君・宗景にも叛旗を翻す。

 

 直家は中央に進出した織田信長や龍野城の赤松政秀と結んで宗景・赤松宗家・小寺氏の連合と争う形になったが、政秀が青山・土器山の戦いで小寺家臣の黒田職隆・孝高父子に完敗し、信長からの援軍も越前に転戦すると、宗景は龍野城を攻めて政秀を降し、孤立した直家はすぐさま宗景に謝罪し、宗景は信長に配慮して帰参を許してしまう。

 

 元亀元年(1570)直家は家臣の金光宗高に毛利氏への内通の嫌疑をかけて石山城(岡山城)を奪い、ここに居城を移した。元亀3年(1572)には、美作高田城の三浦貞勝の未亡人・円融院との間に一人息子の八郎(のちの秀家)が生まれている。

 

 ところで、宗景の兄・政宗は永禄7年(1564)播磨室山城において嫡男・清宗と黒田職隆の娘との婚礼当日に政秀の襲撃を受けて父子ともども討死していた。職隆の娘はともに亡くなったとも、清宗の弟・誠宗に輿入れし、久松丸を産んだとも伝わる。

 

 誠宗は宗景の意思により暗殺されたが、直家はこの久松丸に目をつけ、天正2年(1574)小寺政職預かりとなっていた久松丸を岡山城に迎え、再び宗景に叛旗を翻した。さらに毛利氏とも同盟を結び戦力の不利を克服すると、翌天正3年(1575)明石行雄ら側近たちも宗景を見限り、天神山城は陥落し、宗景は播磨へ落ちていった。

 

 天正6年(1578)復活を期す宗景が蜂起して一時天神山城を回復するが、やがて鎮圧され、直家の備前支配が確立した。

 

 天正7年(1579)信長の家臣・羽柴秀吉が進出してくると、これに抵抗したがやがて毛利氏と手を切り信長に臣従し、以後は毛利氏と戦ったが、天正9年(1581)末に岡山城で病死し、しばらく喪は隠されたが、翌年に公表され、秀家が家督を相続した。